無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10430日

 気温も少し下がったので、朝から長男が購入した古家に行って窓を開けて風を通してきた。定期的に風を通さないと家が痛むというので、月1回か2回やっている。8月にみんなで行って草刈り剪定をやったにもかかわらず、2週間ほどで庭は草ぼうぼうにななって、一部は塀を乗り越えて道路にまで達していた。黒い子猫がうろついていたから、前から住み着いていた黒猫が子供を産んだようだ。ゴミが散乱していたのも、おそらく猫の仕業だろう。

 猫というのはやっかいで、家から離れない。この家を壊して更地にしてしまえばいなくなるのかもしれないが、リフォームだとそのまま居つくんじゃないかと心配している。うちは猫は飼ったことがないのでわからないが、わしの友達のK君のお母さんは猫が大好きで、猫嫌いのおばあちゃんが亡くなるとすぐに猫を飼い始めた。そのおばあちゃんが元気だった頃、小学生のK君が、「おばあちゃんが死んだら猫を飼ってもいいんよね。」と、おばあちゃんの前で言うので困ったと、話していたことがあったな。

 わしが小学校5年の時に犬を飼い始めたが、おふくろは最後まで反対していた。結局わしら兄弟で世話をするという条件で飼ってくれたが、そんな約束は半年も続かず、世話はおふくろの役目になってしまった。おふくろが反対した理由はそれだけではなく、死ぬのをみるのが嫌だということがあったらしい。

 兄貴が田舎の駐在所で生まれた頃、大きな黒い犬を飼っていた。ある朝、その犬がお百姓に鍬でたたかれて、血だらけになって家まで帰ってきたが、かわいそうに死んでしまった。今みたいにペット病院があるわけでもないから、どうしようもなかった。犬も腹が減って畑のものを食べたのかもしれないが、鍬でたたき殺すことはないだろう。おふくろはこの十数年前の出来事がトラウマになって、二度と犬は飼わないと決めていたらしい。

 おふくろにしたら無理をして飼ったこの犬も、たった5年で死んでしまった。わしらはすでに家を出ていたので、電話で、ぺすが死んだよと聞いただけだったが、ずっと世話していたおふくろは結構つらかったみたいだ。人でも犬でも親しい間柄のものに先に死なれたら、それは悲しい。悲しいけれども、それが寿命であり、且つ順番通りであれば、それはそれでよしとしなければならないんだろうな。あと100年したら、ここでブログを書いている人はみんな死んでこの世にいないように、急がなくても例外なく平等に死はやって来る。毎日毎日が自分だけに与えられた、ゴールへ向かう貴重な時間だと考えれば、何も焦ることもないし、こうあるべきだと自分を制限することもない、普通にやるべきことをやって、自分のゴールだけを目指して、淡々と歩いて行くだけだ。今生でだめなら来世がある。

 以前わしが、小太郎花子は毎日何を考えて生きているのかなと言ったときに、女房が、「みんなにかわいがってもらいたいと思って一生懸命生きているんよ。」とつぶやいたことがあった。そういわれると一層かわいさが増してきた。

 

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