無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10424日

 毎日家にいると、人と会うことがないので、余所行きの顔をする必要がない。その点は気が楽だろうと思っていた。実際、この一週間で、女房以外と話したのは、近所にできた「ほねつぎ」という整骨院のチラシを持ってきた、院長ぐらいだ。断っても毎週金曜日にチラシを持って来ていたヤクルトおばさんも、女房が、どうせ買わないんだから出なくていいというので、玄関のベルが鳴っても、耳なし芳一状態でやり過ごした。おばさんたちの話も、面白かったんだけどな。

 それで気が楽になったかというと、そんなことはない。常に自分だけを見ていることによって、かえって自分から離れられない分、様々な心の揺れは消えることなく、それぞれが干渉して増幅しあっているんじゃないかと思うくらいだ。この状態がそれほど楽しいとも思わないし、それどころか以前楽しいと感じていたのはどういう時だったのか、そんなことも思い出せなくなった。

 旅行に行くとか、映画を見に行くとかいろいろやることはあるだろうと思われるが、今一つ気が乗らない。旅行も行ったら行ったで面白いんだが、それだけなんだな。当初目的としていた神社は、4年かけて青春18きっぷであらかた回ってしまったし、これ以上は旅することが目的となって、単なる気晴らしになってしまうような気がする。映画なんてものも東京にいた頃は、仕事帰りに文芸座とか文芸地下とかよく行ったが、結婚してからはあまり行かなくなった。映画だけのために、2時間も時間をかけることが贅沢に感じるようになったからかな。

 日常生活によってもたらされる事全てを認めて、生きているだけで楽しいと思えれば最高なんだろうが、そんな生活をしている人が、本当にこの世に存在しているのだろうか。もちろんそんな感じも全く無いことはないが、あったとしても、ほんの一瞬のことで、あっというまに通り過ぎてしまう。その部分だけ取り出して、無理やり拡大したら、それらしい本の一冊でも書けるのかもしれんが、そんな薄っぺらい本には何の意味もない。それなら、そんな一瞬のよろこびを求めるよりも、いっそのこと、様々なことに思い切りとらわれて、心がいつもぐらぐら揺れているのが人間なんだと、ありのままに認めるほうが、楽になるのではないかと考える時もある。 

  結局いくら考えても何の結論もでないことを、毎日毎日考えながら日を送るという単調さには、多くの人は耐えられないだろう。わしも辟易することはあるが、わし自身の思考過程を客観的に眺めることができるというのも、引きこもり生活の醍醐味だともいえる。いつかは結論がでるんだろう。今日桐生選手は100mを9秒98で走ったが、わしの死への助走路はそんなに早く走りたくはない。休んだり振り返ったりしながら、ゆっくり歩かせて欲しいものだ。