無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10422日

 昨日行ったイオンモールにもペットショップがあって、多くの人でにぎわっていたが、わしはどうもペットショップは苦手だ。あの犬や猫は飼い手が見つからなければ最後は殺されるんだろう。犬猫は知らない間に、命をかけてあの狭いケージの中で暮らしているともいえる。そんな過酷な未来が待っているとも知らずに、すやすや寝ているのを見ると、なんか哀れになってきて、見ていられなくなる。

 昨日の店は、ケージの中の犬や猫もきれいだったからまだよかったが、ホームセンターや場末のペットショップでは、あまり手入れされてないところもある。花子はまさにそんな店で売られていた。抱かせてもらったら物凄く臭かったし、態度もおどおどして、人を信用していないような感じがした。あまりいい環境ではなかったんだろう。血統書付ではあったが、スタイルはよくないし、わしら買わなかったら生きていけないような気がした。

 近所のホームセンターにドッグフードを買いにいくと、どうしてもケージの前を通るのでついつい見てしまう。そんなある日、成長してかなり大きくなったミニチュアダックスが売られているのに気が付いた。ここまで大きくなるともう売れないだろうなと思って、気になって店に行く度にその犬を見に行くようになった。しかし、数か月後に突然居なくなった。おそらく生きてはいないだろう。飼えるものなら飼ってやりたいとは思っても、一旦飼い始めると、十数年責任が生じることを考えると、そういうわけにもいかない。空っぽになったケージを見てなんとも言えない気持ちになったな。

 しかし反面、きれいごとを言うんじゃないよと笑って自分もいる。こういう感情を持つこと自体、わしのエゴであり、傲慢だとも言える。今晩の親子どんぶりにも、人が殺したにわとりの肉が入っているのに、おいしいと言って何の感傷もなく食べている。以前テレビの番組で、肥育農家の人を紹介していた。その人が牛はほんとにかわいいと言うので、レポーターが、でも殺して食べるんでしょうと聞くと、その人が、それは商売だから仕方がないと真顔で言ったのが印象的だった。そこには当然何の感傷もない。人に食べられるために育てられているのだから、殺されて肉になって人の役に立つのは当たり前のことだという厳然たる事実があるだけだ。

 そこがペットと家畜の違いだといえばそれまでだが、一方でケージからいなくなった犬を心配し、また一方ではおいしいと言ってにわとりの肉を平気で食べるている。結局わしらは自分に役に立つように、自分の中にある感情をうまく使い分けて、心の平衡を保っているだけではないのだろうか。