無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10420日

 一昨日の午後4時半に注文したプリンターを、今朝10時頃佐川急便が持ってきた。別に腐るものでもなし、こんなに早く送ってもらわなくてもいいんだが、運送会社としては、一度始めたサービスの質を落とすわけにもいかんのだろう。あれだけドライバーが大変だと言っているんだから、ゆっくり運ぶ不急便を作って、それ以外の急便は料金を上げればいいと思うんだが、そうもいかんのかな。

 一部地域では当日配達ゆうパックとか、飛脚即日配達便とか、超速宅急便とか、その日に着くというサービスがあるようだが、ここまで来るとクレイジーとしか言いようがない。こんなことやっているから人が足らなくなるんだろうに。宅配便ができて便利になったことは確かだが、便利さを追及し続けることが、本当に人々を幸せに導くんだろうか、甚だ疑問だな。今日のドライバーもあまり元気がなかった。

 こんなことを言っていると、世間で仕事をしている人はみんな忙しいんだと叱られそうだが、わしはこんな社会が持続するとはとても思えない。盆も正月も関係なく店が開きだしたのはいつの頃からだろう。正月3が日くらい休めばいいのに。40年前なら東京でも3が日は閉店だったし、お盆の時は道もがらがらで単車で自由に走れたが、今はどうなんだろう。

 グローバルスタンダードとかいって、アングロサクソンにいいようにやられているが、会社が株主のものだなどと一体誰が言いだしたんだろう。株式持ち合いもいいし、年功序列も上等、四半期ごとに利益などあげなくていいから、長期的な展望にたって、安定した経営をして、会社も適度に儲けて、社員も幸せになり、社会に貢献もすることができればそれが一番だと思う。日本式経営を悪のように言い募って潰してきたが、それによって、より良い社会になったのかな。

 わしらの世代が子供時代を過ごした、昭和30年代はみんな平等に貧乏だった。鼻水を垂らして、着た切り雀の学生服の袖でその鼻をふくので、袖のあたりはいつもテカテカに輝いていたな。子供でも自転車でどこまででも行けたし、夜は静かで、遠くで吠えている動物園のライオンの声が聞こえてきたり、SLの汽笛の音が聞こえてきたり、みんなで火鉢を囲んで酒粕を沸かして飲んだり、物は無かったけど楽しかったなあ。別にノスタルジーで言うわけではないが、この頃が時代精神と人間の心とが一番バランスがとれていたのではないかと思っている。帰れるもんならこの時代に帰ってみたい。