無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10415日

 昨夜は高速も一般国道も通行止めになっていたので、長男一家は今朝5時過ぎに帰って行った。やっと静かな日が帰ってきてほっとしている。結局土曜日日曜日と2日間、生活のペースが乱れて毎日の日課は吹っ飛んでしまった。自分で決めているだけで、やってもやらなくても、誰にも何の影響も与えないことではあるが、やらないということは、自分の中では結構重荷になる。女房も掃除なんか毎日やらなくてもいいのにというが、そうはいかない。この今の生活パターンが崩れるということは、自分の存在自体が無駄なものになってしまうような気がする。

 自分の中でやめるということの理由づけが、きちんとできれば問題ないんだろうが、結局一番面倒なのが、すべてを知っている自分自身を、納得させることができるかどうかということになる。例えば、女房にきれいんだから、毎日の掃除は必要ないだろうと言われてやめたとしても、自分自身は、楽をしたいがために、毎日の掃除を2日に1回に変更したんだということを知っている。この騙すことのできない自分のマインドとの軋轢から逃れるためには、約束を果たす以外にはない。もっと聡明になり、自分自身を完全にコントロールできるようになれば、方法があるかもしれないが、今のわしにとっては、日暮れて途遠しという感じだな。

 古事記神代巻100回音読も同じことで、去年の4月1日から1日の休みもなく読み続けて現在88回目に入っている。どんなに面白い読み物でも2~3回読んだら飽きてくるだろうが、不思議なことに古事記は何回読んでも飽きてくるということは無い。しかし、これも読んだからといって何かいいことがあるわけでもない。1日くらいやめたところで、人から見たらどうとうことはないんだろうが、これもそうはいかない。しんどい日もあるし、眠たい夜もある。それでも机の前に座って一段でも2段でも読んでいる。それが自分との約束だからだ。

 仕事をしている頃は、自分との約束なんかは破るためにあるようなものだった。しかし、外の世界との交渉をほぼ絶ってしまった今、わし自身を律するものはこの約束しか存在しない。1日家にいて、心の乱れは消えることは無いが、今の生活を始めるにあたって取り交わした約束を実行することが、心の安定を少しでも取り戻すことに寄与しているような気がする。