無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10413日

 わしは時々過去を忘れてしまいたいと思うことがある。両親を亡くした今となっては、小さい頃の様々な思い出を覚えていても、いっしょに笑ったり、相槌を打ったりして共有してくれる人は誰もいない。生きていた時も、最後の頃はほとんど忘れていたから、死んでも同じようなものかと思っていたが、そうではなかった。生きてさえいてくれれば、たとえ覚えていなくても、たとえ意識は無くてもこちらから話はできる。しかし、死んでしまえばそれもできない。

 誰もわしの過去を知らない今となっては、楽しい思い出も色あせてしまう。ここで思い出を書いていても、時々無性に寂しくなることがある。そんなものは共有できる誰かと話すことができて、初めて価値があるもので、一人で思い出しても、頭の中に記録された映像を、一人で見ているような味気無さに耐えられなくなることもある。わしは小さい頃から昔のことをよく覚えていると評判だったし、今でもよく覚えているが、これがこんなに重荷になろうとは、想像もできなかった。

 このブログを書くようになって、今まで何となく見ていたことや経験したこと、それら同士の関連性、更には自分との関わり等を考えるようになった。その漠然としたイメージを、文章という形にして残すためには自分自身に説明しなくてはならない。人にではなく自分にということは、嘘やだましは通用しない。それだけで既に高いハードルになっている。

 しかしそこまでやっても、そのほとんどの事は、生活にも生き方にもほとんど何の影響もない、忘れてしまっていいような些細なことだ。些細なことだからこそ、尚の事それらにきちんと関わることによって、これで終わりにしたいと思っている。ほとんどはわしが勝手に作り出したしがらみで、これらとの関係はわしが死ねば消えてしまうような、「ちっぽけなもの」だからだ。

 昔の思い出は時々重荷になっても、決して邪魔はしない。静かに、平穏に過ごしたいと思う自分の心を一番乱す原因は、実はこの「ちっぽけなもの」であることが多い。ブログを書くことによって、それらに捉われることがなくなるのかどうか。書くことはわしにとっては鎮魂と同じような位置づけなのかもしれない。