無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10411日

 お彼岸なので今朝は10時ごろに、雨の中、墓掃除に行ってきた。墓石も雨で洗われて汚れも落ちていたので、今回はすぐに終わってしまった。車で30分くらいで行けるるんだから、もっと頻繁にお参りに行ったほうがいいのかなと思う時もあるが、そんなこと普段は忘れている。毎日毎日先祖の事を考えて生活している人はいないだろう。お彼岸になったら思い出すというくらいで、いいのではないのかな。

 墓地の周辺の田んぼは稲刈り前で、黄金色の稲穂が風に揺れていた。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」稲穂を見るといつもこのことわざを思い出す。学校で稲穂のようになりなさいと言われたことがあったような、なかったような、はっきりとは覚えてないが、このことわざは小さい頃から知っていたから、おそらく学校で教えてもらったんだろう。

 歴史上ではこういう立派な人もたくさんいたようだが、現実の社会では、わしはあまり見かけたことがない。多くの人たちが経験してきているだろうが、まず今の社会で出世する奴には碌なやつがいないということだ。いないことはないにしても、上昇志向の強い性格の者たちが頭を垂れるのを見たことがない。

 本当にできた人が出世して、世の中のために働いてくれたら、それは素晴らしい社会ができるだろうが、得てしてそういう人は埋もれてしまっていることが多い。そういう人を見つけ出し、引き上げるためには、それだけの見識のある人が上にいなければできないんだが、東芝やシャープの役員連中、貧困調査の文科省前次官などをみていると、上の人材もすでに枯渇しているようだ。このような、たいした能力も気概もないのに、経済成長の波に乗せてもらっているうちに、優秀だと勘違いした所謂団塊世代が、若者の夢も未来も食いつぶして来たということだろう。

 まあ、そんなことはさておいて、今日も以前来たことのある、あの「さくらの湯」に寄って、ひと風呂浴びてきた。湯上りにロビーでマッサージ機を使った後の、冷えたノンアルビール、キリンのゼロイチは最高だったな。わしなんかは初めから能力も気概もないことはわかっていたし、争いも競争も嫌だった。すると、もって生まれた運もあるんだろう、それなりの職場が向こうからやってきた。可もなく不可もなく、家族5人が食べていけて、多少の貯金もできた。時には争ったり、逆らったりすることをやめて、流れに身を任せながら、素の自分を見つめなおすということも大切なことだと思う。