無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10410日

 思えばたった半世紀前のことだが、若い頃を過ごした島の風景も、島の人たちの日常も学校も寮生活も何もかもすっかり変わってしまって、今では隔世の感がある。わしらが入学して住み始めた、木造モルタル造りの古い学生寮は10人部屋で、寝るスペースとして畳1畳分が割り当てられていた。飯場のタコ部屋みたいなものだな。元々この寮は1部屋4人だったんだが、入学定員が40人から44人になった関係で、4人が住めなくなった。そこで学校が考えたのが、並びの1部屋を学習室として10の机を並べ、隣を寝室として10人分の2段ベッドを置いて、これを2セット作るという方法だった。こうすれば確かに4部屋分のスペースに計算上は20人住むことができる。

 24人が6つの4人部屋に入り、20人が10人部屋に入ることになった。わしはこの20人の中に入ったということだ。さすがにわしも入寮したときは驚いたが、これが住んでみるとなかなかいいもんだった。まず孤立することがない。勉強するのも、遊ぶのも10人でするので楽しい。秋になると日曜日にはみんなでよくハイキングに行った。時々農家の人からみかんを貰って食べたり、山には野イチゴとかアケビとかいろいろ旨いものがあった。

 冬になると、部屋には約70cm角の鉄製の火鉢が配られて、それに入れる灰を作るために、晴れた日の夕方、校庭にうずたかく積まれてた藁を燃やす作業が始まる。キャンプファイヤーみたいなものだ。1年半の乗船実習から帰って来ていた専攻科の学生も加わり、歌をうたったものだ。歌と言ってもそれは猥歌というやつだが、わしもそこで教えてもらった猥歌は今でも歌うことができる。清廉しか認めない、今の建前社会ではちょっと許されないだろうな。窮屈な世の中になったもんだ。燃え尽きた頃に倉庫から重い火鉢を持って来てその中に灰を入れて、それを部屋に持って帰る。その後、炭の配給を受けてその冬初めて火鉢に火が入るが、炭は1週間に1俵と決まっているから、うまく加減して燃やさないと寒い週末を過ごすことになった。

 消火訓練もあった。島内には本職の消防は無かったので、地区の消防団が活躍していた。学内にも大八車に積まれた2台の消防ポンプがあり、これも重要な設備だった。この2台の大八車を全速力で押して校庭を横切り、貯水池まで行って放水するんだが、2台で速さを競っていて、結構熱くなっていた。

 わしらが一番楽しみにしていたのはやっぱり家族や友人からの手紙で、用務員さんが毎朝自転車で郵便局まで取りに行って、1時間目が終わる前に用務員室の前に並べてくれていた。したがってこの休み時間は、240人の生徒全員が自分の手紙が届いてないか確認に来るので、いつもごった返していた。

 こんな生活も入学して2年で終わってしまった。3年目から学校も寮も鉄筋コンクリート4階建てとなり、集中暖房となって火鉢の出番もなくなった。近代的な、どこにでもある普通の学校になってしまったということだろう。この当時はすべてが新しくなり便利になってよかったと喜んでいたが、その3年目以降のことは今ではほとんど記憶に残ってない。いつも浮かんでくるのは木造の寮や校舎で過ごした2年間のことだけだ。この頃に高度成長の波が、瀬戸内の島にも及んできたのだと思うが、案外わしの純粋な子供の時代もこの2年間で終わったのかもしれんな。