無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10407日

 この世の中は、自分とはまったく関係なしに、どんどんながれていく。自分がここに居ようが居まいが、知っていようが知るまいが、賛成だろうが反対だろうが、そこには何の容赦もない。むしろこれは当然のこととして、自分の内面で引っかかることは何も無い。ところが例えば職場や学校ような限られた場所においてはそう簡単ではない。たとえそのことが自分とは全く関係なかったとしても、そこで知らない人たちが集まって楽しそうに会話をしているのを見ただけで、疎外感を感じて、世の中がつまらないもののように感じてしまうのはどうしてなんだろう。

 もし、その中に好きな女性がいたとして、その女性が自分に気がついて、手を振ってくれたとしたら、今まで感じていた疎外感は雲散霧消して、そこには光輝く世界が出現しているに違いない。このように自分が第三者として存在し、動かされることがない現実と、当事者として巻き込まれてしまう現実、世の中にはこの2つの現実が存在している。そしてこの2つ現実の間を繋いでいるのは、自分だということではないのだろうか。

 実際には現象としての現実は1つで、しかもそれはすべて連続したものであり、個人の感情で左右されるはずがない。しかし、自分の意識を介してそれを眺めた時、まるで自分がこの現実の中の唯一絶対の存在のように、自由に自分の意識を反映させ、二つの現実に切り分けてしまうのではないのだろうか。その一方には何の力もない自分がいて、一方にはすべて中心に自分がいる。

 最近、わしがいつも感じているもどかしさというのが、まさにそれではないかということに気が付いた。何かをしていてもいつも心が揺らぎ、時々これでいいのかという不安も頭をもたげてくる。そのくせ、何か良いことがあれば、そんなこともすぐに忘れてしまう。結局いつになっても自分が作り出して、主人公になっている現実からのがれることはできない。或いは、ひょっとすると自分が第三者として存在して、動かされることがない現実に巻き込まれることによって、何の力もない自分に気が付くのを、心のどこかで恐れて、逃げているのかもしれない。