無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10400日

 一日中家にいて、自分の中だけで時間を消化するという生活は、自分がそれに満足して、認めることができさえすれば完璧なものとなるはずだが、現実には、そんなにうまくはいかない。客観的に見たら、外に出ようが家にいようが、体をどのように使うかという、いたって物理的な違いがあるだけで、その差はほとんど無いに等しい。しかし、行動には必ず意識が伴っている。小さな物理的変化であっても、それによって引き起こされる意識の変化は大きく増幅されて、それまで感じていた小さな満足感なんぞ木っ端微塵に吹き飛ばしてしまう。

 つまり、物理的変化の乏しい今の生活を肯定的に受け取るためには、自分の意識が、たとえそこには何の高揚感も達成感もなかったとしても、今の状態でいいと認めることができなければいけない。外へ向かって何かをしたい、人に認めてもらいたい、お金を儲けたい、そういう意識の変化を排除できなければストレスが溜まる一方になるということだ。これでは落ち着いた静かな生活などできるはずがない。

 去年の4月、この生活が始まった頃には緊張感もあり、未知の生活に対する不安や期待等、様々な気持ちが錯綜して心地よい自己満足感に包まれていたような気がしている。あれから18か月たち、今あるのは、ある時は新しい発見に喜んだり、ある時はこの生活を続けていいのかと不安になったり、またある時は怠惰な自分に憧れたり、その日その日、その瞬間その瞬間、陽炎のようにに揺れ動く頼りない自分だけだ。

 それでも今の生活を続けたいと思うのは、今から35年前に知った神道へのあこがれからだろうと思う。神道は理屈ではないし宗教でもない。鎮魂帰神を通して神と出会うこと、これが最終目標であって、要はそれができるかできないかということだ。しかもそれへ至る道は自分で探すしかない。まさに五里霧中だ。あと10400日こんな状態で何の進歩もなく終わってしまうかもしれない。その可能性のほうがはるかに高い。

 まあここで焦っても仕方がない。ひとまず定年まで仕事をやろうと決めてやっと定年が来た。そして念願の今の生活を手に入れた。少し肩の力を抜いて、揺れ動くのなら揺れ動く自分を客観的に眺めてみるのもいいのかもしれない。自分んで決めたことをやり通すうちに、何かがわかることもあるかもしれない。