無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10398日

 多くの人が経験していることだと思うが、コピー機が普及し始めた頃から、回ってきた文書とか、読んでいる本なんかをやたらコピーするようになった。コピーするときは大事なものだから忘れないようにとっておこうと思うんだが、すぐにどこかにしまって忘れてしまい、後になってそれ見直すことは99%無かった。コピーをとってしまえば安心するんだろう。紙と時間の無駄以外の何物でもない。

 わしは自分の記憶もこれと同じように、一度頭の中で整理してそれをコピー代わりに自分で書き出せば、そのまま忘れてしまうんじゃないかと密かに期待していたんだが、記憶に関してはどうもそうではないということがわかってきた。どうやら「書けば忘れる」ではなく「書けば一層強固になる」ということのようだ。わしは昔の小さな出来事や、その時の自分の心の動きの細かい所まで覚えていることが多い。そのことは若い頃はそうでもなかったが、歳をとるにつれて楽しいというよりもしんどいと感じるようになってきた。

 わしがこのことを意識するようになったのは、晩年鬱になった親父が、昔の楽しかったことは忘れてしまって、嫌だったことや、つらかったことだけを顔をしかめながら話すようになったのを見てからだった。人生楽しいことばかりではないにしても、嫌なことばかりでもない。両者がうまいこと経糸横糸のように織り上げられて人生という一枚の布になっているはずなんだが、歳をとることによってか、或いは鬱が原因なのかわからないが、何時かはその平衡が崩れてコントロールできなくなる時がやってくるかもしれないということだ。

 どこに入っているのか知らないが、頭の中に詰まっている記憶の中では常に自分が主人公で、自分の目で見て自分で考えている。そこには嘘をつかない正直な自分がいて、嫌なら嫌と素直に感じている。実際の場面では愛想笑いのひとつも浮かべて、楽しく会話が弾んだかもしれないが、わしの中には嫌だという記憶も確実に残っている。その後歳をとるにつれて、楽しかった思い出として記憶していたはずのこの時の会話から、作り物の楽しさが消えていって、本当の正直な自分が表に出くるのではないか。

 こんなことならすべて忘れるに限るということで、過去とのしがらみからの決別という意味もこめてブログを書いているつもりが、逆に、より強固に結び付けられているとしたら、これは困ったことだ。親を失えば自分の過去を失うと言われるように、わしの過去なんか覚えていたところで、他に誰も知らないんだから、既に何の意味も無い。親父の遺品の処分は親父に代わってわしが済ませた。しかし自分の頭の中の大掃除は、自分でやらなければ誰もしてくれない。初期状態に戻すというボタンがあればいいんだがな。