無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10394日

 昔はカメラは貴重品で誰でもが持っている物ではなかった。中学校の修学旅行もカメラを持っていけるのは1グループに1台と決められていて、それでグループの写真を撮ることになっていた。その当時、うちにはヤシカministerというカメラがあったので、それを持って行ってグループの写真係やったことがあった。あと10558日に書いた͡コニレットは12枚しか撮れなかったし、人の写真も撮るとなるとちょっと荷が重かったかな。このヤシカministerは1万円ちょっとしたと思うが、値段の割に結構きれいに撮れて良いカメラだった。

 終戦後市内の写真店の店主が、繁華街にカメラを据えて道行く人を勝手に撮影し、出来上がった写真を本人に売るという商売を始めたらしい。遊園地などで、アトラクションのあと、撮影した写真を本人に売るのと同じ方法だ。そんなに長い期間ではなかったようなので、みんな忘れていたんだが、今から30年ほど前に、その時の店主がそれらの写真をまとめて写真集を出版したことがあった。わしは古い写真には興味があったので、書店に並んだその写真集をペラペラめくっているうちに、何かを考え事をしながら歩いている、若き日の親父らしき人物がはっきり写っているのを発見した。

 早速家に帰って親父に聞いてみると、暫く考えていたが、すぐにその時のことを思い出したようだった。「そうそう、1人で町をあるいている時、突然フラッシュが光って写真を撮られたことがあった。あの時は、これからどうやって生きて行ったらいいのか考えていたんだ。しかし写真は買わなかったはずだ。」こういうので、わしは間違いないと思って、1万円近くしたの写真集を購入して親父にプレゼントした。しかし、不思議なことに親父の遺品の中にあの写真集は見当たらなかったな。

 わしは家族写真やポートレートを見る時、写っている人物もさることながら、バックに写りこんでいる風景にも非常に興味がある。例えば家族写真を撮る時は、当然人物が中心で、その後ろに広がる風景はなんとなく未来永劫続くものだと思って、特に意識することはなかった。しかし何十年かたってその写真を見た時、人物の変化は当然なことでそれほど気にならないが、そのバックの風景の変化には驚かされることがよくある。逆にどんなにきれいに撮られていても、スタジオ写真ではこの感覚は体験できない。古い写真を見ていて、既に記憶の中にしか存在しなかった風景に出会った時は、心が浮き浮きしてくる。