無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10391日

 普段忘れていることが、何かの拍子に突然浮かび上がって、それが呼び水になり、次から次へと、それと関連したことが湧き上がってくるということを、昨夜初めて体験した。暑くて寝苦しかったので、エアコンをつけても、なかなか寝付けなかった。そういう時は、見た夢をよく覚えていることが多いが、今回特に驚いたのは、40年近く前に東京で仕事をしていた時の勤務先での出来事が、克明に再生されていたということだ。

 わしは、仕事は生活していくための手段と割り切っていたので、仕事に対する不満というものはあっても、あまり考えないようにしていた。大事なのはその生き方であり、その精神であって、仕事はそれらを充実させるための手段であり、枝葉末節にすぎないと信じていた。

 わしは夢の中で、昔の職場を見ながら、そこを辞めたことによって、大きな何かを失ったのではないかと、非常に後悔をしていた。現実の世界でそれを後悔したことはいまだだかつて一度もない。それなのに夢の中で後悔している自分がいることに驚いた。確かに、仕事として見た時、前の仕事の方が社会的な価値はあったし、待遇も良かった。その分野では日本でトップの有名な職場だった。しかしわしはそこを辞めて、親や家族と一緒に暮らす道を選んだことに、何の疑問も持ってなかったはずだ。

 親を見送り、子供も独立し、仕事も定年退職して、選んだ道をやり終えた時、満足感と共に、隅っこの方に押し込められていた、そういった記憶が再び蘇ってくるんだろうか。こんな道もあったぞ、あんな道もあったぞと、引き返すことのできない現実をあざ笑うかのように、夢の世界で、埋もれた記憶を暴き出していくんだろうか。

 目覚めた時、もう一人の自分を見たようで嫌な気分だった。過去を捨てることから始めた今の生活が、逆に過去を蘇らせるとしたら、今の生活に何の意味も無いことになってしまう。この生活を続けて行くためには、今一度自分を見つめなおし、何事にもとらわれない自己の確立が重要だとは思うが、そんなことができれば誰も苦労しない。今はできもしないことをあれこれ望むよりも、常に揺れ動く凡人にとっては、それも自分の一部だと素直に認めて、嫌なことはいつまでもゴタゴタ考えずに、早く寝て、また新しい朝を元気に迎えることが一番の特効薬だろう。