無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10388日

 一昨年の10月15日は、このブログを始めるきっかけとなった叔父の亡くなった日で、今日は3回忌の法要に出席した。2年前、葬儀の後「うちの一族はがんで死ななければ94まで生きる」と叔母に言われたときは、それはすごいと思ったが、丸2年たった今になって思うのは、それも大変だなということだ。30年生きるとして、どこまで自分の意志だけで生きて行けるのか見当もつかない。今は健康なので、人に頼らずとも何でも一人でできるから、気楽に30年と言えるが、人に世話してもらわなければならなくなったとしたら、30年という年月はとてつもなく長いものに感じるだろう。

 歳をとるということは、体の自由だけでなく、心の自由も失っていくことではないかと最近思い始めた。若い頃、歳をとるということは外見が変化すること、という程度のことしか考えてなかった。なんとなく、今の状態のままでしわができたり、白髪が増えたりするんだろうと思っていたんだと思う。ところが自分の順番がきて初めて、昔簡単にできたことができなくなったということに気が付く。それもある日突然に気が付くという感じだった。上下左右自由に俊敏に動いた体が思い通りに動かない。飛べない走れない曲がらない、ほんと嫌になるくらいだ。若者の延長線上に老人がいるのではないということに嫌でも気づいてしまう。

 しかしそれはそれで仕方がないことだ諦めもつくが、心の自由はもっと大きな問題だ。今のわしなんかは人からみたら、仕事に縛られることなく自由な生活を享受しているように見えるかもしれない。しかし、一般的に自由な生活と聞いてどんなものを想像するだろうか。それは自分のやりたいことをすることかもしれない。ではやりたいことを何のためにするのか。生きるためにするのではないしたら。ちょっとした豆知識を身につけるためなのか、ちょっと上手になりたいのか。それが自由の成果だとしたら、それは寂しい。自由という魔法の言葉に惑わされて、結局何もない袋小路の中に迷い込み、それで人生が終わるとしたら、これは一番恐ろしいことだ。

 人生のゴールもなんとなく見えてきたが、まだまだこれからが正念場かもしれんな。