無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10383日

 家に引きこもっていると、よく趣味を持ったらいいとか、人と関わった方がいいとか言われるが、趣味を持ってそれに没頭したとして、それで一体何が残るというのだろう。気晴らしや時間つぶしにはなるかもしれないが、何の役にも立たないとわしは思う。この気持ちを理解してくれる人も、中にはいるかもしれないが、そういう人はおそらく社会に適応するのは苦手なタイプで、少し変わっていると言われているのかもしれない。

 人生において、気が付かなくてもいいことに気が付いてしまった人は、気が付いたがゆえに楽天的に生きることが困難になってしまう。楽天的に生きていると思っている人たちは、ただ単に知らないだけかもしれない。では何に気が付いたのかというと、それを言葉で説明するのは難しい。理解しあえる者同士でなければ話しても通じないので、理解できない人といくら話しても、それに関する会話は全く意味をなさない。

 しかしそれでは社会生活は成り立たないので、社会に適応したふりをしながら、職場でも家庭でも普通に常識的に過ごしている人は、本人は気が付いて無いかもしれないが、案外たくさんいるのではないのかな。そういう人達は、何か忘れ物をしているようで、何をしていてもそれに没頭できないとか、何かに追い立てられているようで、ゆっくりとくつろぐこともできない。気が付く前と後とでは、時間の質も、その流れも全く変わってしまっている。

 定年退職後、再雇用をあと1年残して、以後一切金を稼ぐための仕事はしないと宣言して今の耐乏生活に入ったことによって、やっとその事と向き合うことができるようになったと思っていた。社会に同調する必要もないし、誰かに調子を合わせる必要もない。確かに外部と触れることによって起こっていた波は弱くはなった。しかし、そうなることによって、今まで打ち消されていた、別の波が湧き上がってきたのは想定外だった。内面の騒乱状態は収まるどころか、とどまるところを知らない。

 それを収めるためには、まずはこの現実を客観的にみて、それを認めることから始めなくてはならないのかもしれない。そこには所謂自由な生活は存在しない。本来1歩でも前に進むために生きているんだから、気晴らしをする余裕もないはずだ。今はどこにゴールがあるのか、何がゴールなのかさっぱりつかめないが、生きることの本質、死ぬことの本質、生から死へと至る道程の中に立ちすくんでいては、それらの本質を見逃してしまう。或いは死が生の分身だとすれば、生を恐れなければ死を恐れることもないということなのか。或いは安心して生き通すことができれば、安心して、笑いながら死ねるということなのか。

あと10383日、わかる日がくるのだろうかな。