無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10380日

 2日前から、古事記神代巻を読んでいる時にも、祝詞をあげている時にも、以前とは違って、実行している自分ではなく、それとは別に声を聞いている自分がいるような気がしてならない。実行者でもあり、観察者でもあるということだが、相曾誠治著「言霊と太陽信仰の神髄」p132に「日頃から古事記神代巻を声に出して何回も読み、言霊をじゅうぶん耳に注げば、だんだん鎮魂状態に入り、自然に正しい霊力がついてきます。」と書いてある。毎日古事記神代巻を読み始めて1年7か月、今読んでいるのが96回目だ。

 飽きることはないが、夜遅くなると途中で眠たくなることはよくあった。そういう時はすぐ横にある、去年購入したぶら下がり健康機で、懸垂を10回ほどやればすぐに目が覚める。ただ、これはやり過ぎると眠れなくなることもあるので、気を付けなくてはならない。ところが2日前の夜は、読んでいて急に眠たくなったとき、いつの間にか目を閉じてそらんじていた。すると聞きなれているはずの古事記の言葉が、ものすごく新鮮なものに感じた。そう感じて、改めて聞くことを意識して読んでみると、眠気は吹っ飛んでしまった。ふと、相曾誠治氏の言っている、言霊を耳に注ぐというのは、こういうことではないかと思った。

 この判断が正しいのかどうかはわからない。「人は遅かれ早かれ自分が見たいと思っている物を見ることができる」、うろ覚えだが、たぶんインドのヴィヴェカーナンダの講演集にあったと思う。これは幾分否定的な言葉であって、誰でも、神でも仏でも会いたいと一心に思っていれば、会うことができるけれども、そんなことは宗教においては大した問題ではない、というような意味で使っていたような気がする。

  そうだとすると、相曾誠治氏の言うように、古事記の持つ言霊を聞くということで、鎮魂状態に近づくことができるはずだと信じて実行していれば、遅かれ早かれ、言霊を聞くことができるようになるはずだ。ひょっとすると、聞くことができるような状況に近づけたのかもしれない。そうだとしても、それは単なるスタート地点に着いただけで、鎮魂状態にはいるということ前では、まだまだ大した意味は無いのだろう。

 それでも、祝詞の途中で急に楽しくなったり、今回ように言葉が急に新鮮に響いたりすることがたまにでもあると、励みにはなるし、ご苦労さんと、誰かが時々ご褒美をくれているのかもしれないと考えたりすると、また頑張ろうという気持ちにもなる。