無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10379日

 女房の職場は年配の人が多いので、定年退職した旦那さんの話が、日常の会話でよく出てくるらしい。誰それの旦那さんは毎日外に散歩に行ったり、孫を連れて遊びに行ったりしているとか、誰それの旦那さんは毎日一万歩あるいているとか、要するに、わしが根が生えたように家にずっといるのはおかしいということで、職場でも時々話のネタにしているようだ

 一般的に見たらそれはおかしいのかもしれんが、一応わしも反論はしておいた。(1)毎日散歩で一万歩あるく人は、雨の日も風の日も台風が来ても歩いているのか? わしは毎日寒暖にも天候にも関わりなく、この間の台風21号の日も5千歩あるいている、それは家の中を歩くからできることで、こちらの方が効率的だろう。(2)孫と外で遊んでいる人は、家で洗濯や掃除はしているのか?食事の支度はしているのか?それらを全部済ましたうえで遊んでいるのならいいが、おそらくそうでは無いだろう。

 心配して言ってくれているんだから、それはそれで有り難いんだが、今のところ外へ出て何かやりたいという気は起こらないし、そんな時間もない。女房が仕事を辞めて家に居るようになるまでは、今のままの生活が続くだろうな。それはそれでいいんだが、最近意外なことに気が付いた。人と話すことが以前ほど苦痛ではなくなったどころか、結構面白いと感じるようになったということだ。

 生協のお兄さん、置き薬屋さん、銀行の年金アドバイザー、夏に来ていたヤクルトおばさん等、それほど数は多くはない。今の生活を始める以前なら、面倒くさいと思って、こちらから話題を振ってまで、話しをすることは絶対なかったんだが、最近は話が盛り上がって面白いことが多い。昔、養毛剤のコマーシャルで、「抜け始めてわかる、髪は長い友達」というのがあったが、人と話す機会がなくなって、初めてわかる会話の楽しさとでも言ったらいいのかな。まあ、たまにだからいいんだろう。

 この「抜け始めてわかる、髪は長い友達」だが、このCMも若いときは見て笑っていたが、歳をとると、右側の3本が離れて行って、長と友が残るというイメージが強烈に身に染みてくる。幸いわしの場合は、若い頃に比べてもまだ1本分くらいしか離れていってはないが、確かに勢いは無くなってきた。80でもふさふさしていた親父が、90を過ぎた頃、髪の毛が減ったといって嘆いていた事があった。90でそれだけあれば十分だろうに、贅沢を言ってはいかんというと、そうかなと言ってニコッと笑っていたのを思い出した。