無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10378日

 昨夜、カズオイシグロ氏の、「日の名残り」を一気に読み終えた。終えた後、確かに戦後イギリス貴族の没落や社会の変化を、執事という職業を通して描いてはいるが、それが主題ではないように感じた。イシグロ氏は、書きたいことのために、単にそのシチュエーションを利用しただけで、主題は、衰えと共に誰でも感じているであろう、時の流れの残酷さ、その素晴らしさ、過去への憧憬や後悔、自己の正当化や嫌悪であり、それをイギリスの貴族社会と執事の関係を借りて表現しているだけではないかと思った。

 ミスター・スティーブンスは、わし自身でもあり、もはや盛りを過ぎた人たち誰にでも当てはまる、普遍的な存在であるともいえる。ミスター・スティーブンスにとっては、執事として仕えたダーリントン卿は自分の過去のすべてであり、たとえ間違っていたと思っても、それを否定することは自分の過去を否定することになる。ミス・ケントンへの思いを打ち消したことも、父親の死をみとることなく仕事に励んだこともすべてが無駄になってしまう。それは恐ろしいことだった。

 そして6日間のドライブ旅行で過去と向かい合ううちに、少しずつ分かってきた。「あの時ああすれば人生の方向が変わっていたかもしれない----そう思うことはありましょう。しかし、それをいつまでも思い悩んでいても意味のないことです。私どものような人間は、何か価値のあるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分であるような気がいたします。そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、そのこと自体が自らに誇りと満足を覚えてよい十分な理由となりましょう。」そこには否定も肯定もない、あるがままにすべてを認めることができるかどうかということだけだ。

 これは、イギリス貴族社会だけのことではない、職場においても、家庭生活においても学校においても同じことだ。舞台はどこにでも設定できる。また、ミスター・スティーブンスの6日間のドライブ旅行は、ひょっとすると、わしにとっての、この1年半の家に籠っての内省生活に相当するものといえるのかもしれない。そう考えると、初めに書いたように、イギリス社会や歴史にこだわって読む必要はないというわしの結論も、あながち間違っていないと思う。この本は是非お薦めしたい。

 執事とイギリス貴族がどんな英語を話しているのか気になったので、kindleで原書を購入した。長い付き合いになりそうだな。