無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10368日

 今朝10時30分から、おふくろの13回忌法要があり、叔母やいとこが集まってくれた。この13年で伯父叔父にあたる人は誰もいなくなり、叔母が二人、あとはいとこで、この人たちがおふくろを直接知っている最後の人たちだ。わしは葬式なんかで会っているが、兄貴は帰ってくることもあまり無いので、皆さんに会うのは数年ぶりだった。

 いとこ連中の中ではわしが最年少で、Sさんは11歳上、Tさんは7歳上、Rさんは3歳上、兄貴は2歳上なので、特にSさん、Tさんと飲むと、わしらの小さい頃の話が聞けて楽しい。この二人は、ニューギニアで戦死した伯父の子供で、おふくろにとっては甥にあたる。今日もその話になって、Sさんにお父さんの記憶があるのか聞いてみたら、2歳か3歳だったのでほとんど覚えてないと言っていた。しかし、最後に出征してゆく部隊を、駅まで見送りに行ったのは覚えてる。そこで父親と別れをしたという記憶はないが、蒸気機関車が煙を吐きながら遠ざかっていったのはかすかに覚えていると話していた。

 そして、丁度その時、駅前に移動動物園みたいなのが来ていて、そこでライオンとかトラを見たのはよく覚えていると話していたから、伯母さんが、父親と離れ離れになる息子たちをかわいそうに思って、見せてくれたんだろう。或いは子供らの喜ぶ顔が見たかったのかもしれない。この時すでに、今度は帰ることはできないだろうと、わしのおふくろにも話していたらしいから、Sさん達子供が知らないだけで、周囲の大人は覚悟していたようだ。

 兄は海上自衛隊で事故を起こしたことがあり、結局はそのことが原因で辞めることになったんだが、その詳細については誰も聞いたことが無かった。今日は久しぶりに会ったSさんが兄貴に「お前が墜落したと聞いた時はみんな心配したなあ。どういうことだったんだ。」と聞いてきた。Tさんも聞きたいというので兄貴も「よっしゃわかった、今日は話そう、しかし、ヘリは墜落とは言わん、着水、或いは着陸というんだから、そこを間違えないように。」とみんなを笑わせて、当時TBSのニュース番組でも放映されたことのある、何十年も前の対潜哨戒ヘリ着水事故について語り始めた。

 結論から言えば、飛行3000時間無事故表彰を受けたことによる、慢心からくる油断ということで、これが一番大きいとは言っていたが、事故当時、わしはもっとほかの原因についても、兄貴以外の人から聞いたことがあった。それを言うかなと思って聞いていたが、やっぱり言わなかった。辞めても気持ちは自衛官で、組織の批判は一切せず、自分のミスということで笑い話にしてみんなを笑わせてくれた。最後に、今こうして笑って話ができるのは、幸い死者も負傷者もいなかったからで、もしあの時、自分の指示で後部に点検に行っていた、まだ10代の2名の乗組員が死んでいたら、こんなことを笑って話すことはできないだろうと言っていた。組織防衛か責任逃れかしらんが、莫大な費用と時間をかけて養成した、やる気のあるベテランパイロットを配置換えして、退職に追い込むなど、もったいない話だ。