無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10367日

 兄夫婦も長男一家もそれぞれ家に帰ったので、また二人と犬2匹の通常の生活に戻ることができた。3日の夜から4日の夕方まで、犬はペットホテルに預けたんだが、実はこれが一番心配で、きちんと食べたのかとか、ストレスを感じているのではないかとかいろいろ気になってしょうがない。何年か前に二男がハワイで結婚式を挙げたときには、仕方がないので一週間、ペットホテルに預けることにした。その時はメールに写真を添付して状況を連絡してくれたので有り難かった。

 ものを言えない犬は、ひどい扱いを受けてもこちらに伝える術がないので、そこは店を信用するしかない。今の店は小太郎が10年前にうちに来た時から利用しているので、わしらも信用しているし、犬も勝手がわかっているので、ストレスも少ないはずだ。この10年でペットホテルもたくさんできて、中には料金が随分安いところもある。しかし安いから試しに預けようという気にはならない。人間なら試しに安いホテルに泊まってみるのも一興だが、ペットの場合は命にもかかわることなので、高くても、よく知っている信用できる店を選ぶしか選択肢は無い。

 昨日の法事で、十数人の人がやってきて、食事もしたので、いろんな匂いが混ざっていたんだろう。夕方連れて帰ると、家じゅうを匂って歩き回り、ちょっと目を離した隙にあちらの柱、こちらのカーペットと、しっこやうんこをしまくっていた。自分たちの匂いをつけるんだろうが、人と一緒に住んでいても犬は犬で、その習性が変わることは無いようだ。

 昨日の法事の坊さんは、昔から来てくれている人なんだが、今回の話はいつもと違っていた。お布施のこととか、戒名とか、葬儀も簡素化だけがいいのではないとか、寺の役割などについてしきりに話していたので、普段はこんな話はしないのに、ちょっとおかしいなと思いながら聞いていた。そのことを後から叔母に尋ねると、どうやら最近檀家の集まりで、寺の改修の話が出ていて、それを数千万円の寄付で賄おうとしているらしい。その場で結構シビアな話が出て、お布施や戒名料についても檀家の人たちに言われたようだ。

 しかもその集まりで提示された寄付の額が、檀家一軒当たりで割ると75万円になるということだった。さすがに集まっていた檀家の人達もうんとは言わなかったらしい。バブルの時代ならともかく、今右から左に75万円出せる人はそんなに多くはいないだろう。わしも親が檀家だったから後を継いでいるだけで、それほどの思い入れは無い。それどころか、わしは戒名も葬式もいらないと女房や長男には伝えてある。しかし、みんながこれをやると、確かに寺はやっていけないかもしれないな。

 まあ、多くの人がお経をあげたり、供養したりという儀式に意味を感じなくなったら、それは廃れていくんだろう。そもそも檀家制度自体が江戸時代にできたもので、そんなに歴史があるわけでもない。とはいえ、70年前に親父が分家して新しく檀家になり、この10年で夫婦とも、ここの寺の墓に収まったし、親父から後のことを頼まれているので、わしの代でやめることはできない。しかし子供まで檀家制度に縛ろうとは思っていない。

 時々世間を賑わしている大馬鹿野郎のくそ坊主とは違って、ここの住職は夫婦とも真面目ないい人で、生活も地味だし、お勤めもきっちりやってくれる。わしは決して嫌いではない。それでも簡単に寄付と言われても困る。応援はしたいが、さて、うちが出せるのは10万までかな、というのが女房の出した結論だった。