無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10358日

 長いこと忘れていたが、病気で寝ていると、寝るのは飽きたが、かといって何かをする気にはならないという、中途半端な時間帯があることに、改めて気が付いた。昔はこの時間帯をどのように過ごしていたのかは思い出せないが、おそらく今回と同じようにテレビを見ていたんだろう。わしは普段テレビはほとんと見ないし、まったく興味は無かったにも関わらず、今回は非常に御世話になった。

 こんなに長時間テレビを見たというのは何十年ぶりかという感じだが、黙って見ているだけで、自分で何かを積極的に求めなくても、様々な情報を一方的に流し込んでくれるので、退屈する暇がない。しかも内容なんかすぐ忘れてしまう。「暴れん坊将軍」「相棒」2時間ドラマなんかを続けてみていたらあっという間に一日が終わってしまった。理屈抜きで、1人でこれだけ楽しく遊ばせてくれる道具は他には思いつかない。それは単なる刹那的な遊びにすぎないことはわかっていても、何もしないでいることが耐えられない人達にとっては、或いは時間の流れを早くしたいと望んでいる人たちとっては、必要欠くべからざるものであると言えるのかもしれない。

 学生の頃、近所の本屋で本の配達のアルバイトをしていた時があった。これは楽勝と思って始めたバイトではあったが、東久留米市も外れのほうになると、畑の中が虫食いに開発されて家が建っていたので、範囲も広くて探すのが結構大変だった。東西南北自転車でかなりの距離を走り回ったはずだ。やっと見つけても留守の家も多く途方にくれたことも何回もあった。そんな中に、毎週一回、「週刊テレビ」とかなんとかいった、テレビ番組の雑誌を届ける家があった。

 そこは都営住宅の庭先に、増築されたような形で建てられたプレハブの家で、おばあさんが一人で住んでいた。家の中は雑然としていて、いつもテレビの音が大音量で流れていた。わしは、新聞をみたらわかるテレビ番組表を、なぜこのおばあさんは金を出してまで買うのか、また、なぜそこまでしてテレビを見たいのかが理解できなかった。それでも、いつ行ってもテレビの前に座っているので、不在ということがないし、常に釣銭のいらないように払ってくれるので良いお客さんだった。

 この間、ぼーっとテレビを見ていて、ふと、あの時のおばあさんは、こういう状態だったのかと、気が付いたことがあった。あのおばあさんは、テレビが一番の楽しみだったんだろうし、どんど流されてくる情報を何の疑問もなく、ただ受け流していたんだろう。一日テレビの前に座っているだけで、退屈することなく遊ばせてもらえて、更に積極的に「週刊テレビ」という情報誌を読むことによって、もっと楽しもうとしていたのかもしれない。

 当時から40年以上たち、その時のおばあさんの年齢に近づいたわけだが、決してそのおばあさんが不幸だったとは思わない。できる範囲で十分に人生を楽しんでいたんだろう。何も小難しいこと考えなくても、一度の人生なんだから、生きることを楽しむことができなければ、生まれてきた甲斐がない。規制や規律だけではなく、時には刹那的に生きることもまた人生の醍醐味といえるのかもしれない。

 まあ、いろいろと考えてみると、こうあるべきだということに、あまりこだわらない方がいいのかもしれないとも思う。なにごともさじ加減だとは思うが、66年たってもまだ揺れ動いている。