無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10353日

 わしら兄弟は、近所にあったキリスト教の幼稚園に通っていた。当時幼稚園といってもその数も少なく、行ってない子のほうが多かったみたいだ。兄貴は2年行ったが、わしはなぜか1年しか行ってないので、2歳違いだから2人がダブルことはなかった。一度おふくろに、なぜ、わしだけが1年だったのか聞いたことがあるが、明確な返事は無かったな。いつも一緒に遊んでいた、同い年のK君もH君も2年行っているんだから、なぜ自分だけ行かないのか不思議に思ったはずだが、全く覚えていない。たぶん経済的な問題もあったんだろう。

 わしが晴れて幼稚園児になるまでの1年間は、K君もH君もいないんだから、1人で遊んでいたはずだ。よくおふくろと2人だけで、動物園や公園に遊びに行った記憶があるのは、おそらくこの頃の事ではないかと思っている。昭和32年当時は、うちから市内電車一本で、乗り換えなしに動物園に行くことができた。園内にはいろいろな乗り物があって、わしは飛行機に乗るのが好きだった。高さ5mくらいに所をくるくる回るだけの単調なものだったが、よくそれに乗せてくれた。飛行機が回って来る度に、下から手を振りながら見上げているおふくろに「かあちゃんかあちゃん」と呼びかけていた。この頃は保護者同伴でなくても、幼児だけで乗せてくれたんだな。

 この動物園は、最後の二ホンカワウソが飼育されていたことで有名で、わしもそれを見た記憶がある。当時はまだ絶滅していたわけではないのと、人々がまだまだ食べていくのに一生懸命だったから、二ホンカワウソの保護どころではなかったんだろう。数匹のカワウソが、3m四方くらいの、吹きっさらしの金網の中に作られた、コンクリート製のトンネルや水路を走り回っているだけの、お粗末な環境だったように覚えている。予算的にもあれで精一杯だったのかもしれない。それから7年後に天然記念物に指定されたようだが、時すでに遅しといういうことだろう。

 このような断片的に記憶に残っていることを話しても、楽しかった日々を共有して、一緒に笑いあえる人は誰もいなくなってしまった。親を無くすことは過去を無くすことだと言われるが、ほんとその通りだ。もちろん、亡くなる10年以上前から、あまり覚えてはなかったようだが、それでも、ああそういうこともあったかなあ、お前はよく覚えとるなと、わしの話に調子を合わせてくれたもんだ。

 何の役にも立たない過去のことは忘れて、リセットしようとしても、ことあるごとに浮かび上がってくる。さらにその中では、既に亡くなった人たちも生き生きと話しかけてくることもある。これはある面、楽しみでもある。自分の家族もできて、仕事も忙しくなると親と話すのも面倒くさくなり、一緒に住んでいても話す機会はあまり無かった。これが遠く離れて住んでいたら、なおさらのことだろう。子供の小さい頃のことは親しか知らないだから、もっと昔話をしとけばよかったと、今になって後悔している。