無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10347日

 11月23日夜、去年の4月1日から始めた古事記神代巻100回音読が完了した。当初は、去年の11月までに終わる予定だったが、それはちょっと甘い考えだった。結局11月までには27回しか読めなかった。それから1年かかって73回読んだことになる。読み始めて602日目、途中、旅行と病気で読めなかった6日を除いた596日間、時間が無い時も、眠たい時も毎日机の前に座って読み続けた。やったから何がわかるとか、何か得るものがあるとか、そんなことは初めから期待していない。小さなことかもしれないが、誰に話すこともなく、毎日毎日596日間積み上げてきたことに対して、自分なりに満足している。

 この596日間で、全く何も得るものが無かったかといえば、それはそうではない。今回読み始めるまで、古事記はわしにとって遠い存在だった。子供の頃に絵本でみた、国生みの話や海幸彦山幸彦の話を断片的に覚えていたくらいで、そもそもこれらの話が古事記の話だということさえ知らなかった。そんなわしを古事記の言霊の世界に導いてくれたのが、相曾誠治氏だった。残念ながら相曾誠治氏は1999年12月31日に亡くなられているので、直接お会いしたことは無い。「言霊と太陽信仰の神髄」「サニワと大祓詞の神髄」という、氏が唯一出版したこの2冊の本との出会いがそのきっかけだった。

 100回読んでみてもわからないことが多い。わからないならわからないままで読み進めばいいんだろうと考えて読んできたんだが、結果的にはそれでよかったと思っている。わからないというのは意味が分からないのではない。最近現代語訳というのがあって、これを読むと、何か通り一遍な意味が書いてあるらしいが、それを知ったからと言って何の意味もない。わからないのはそんなことではない。わかろうとして、古事記の中に出てくる話を、自分の知識の枠のなかで解釈することのばかばかしさを、なんとなく理解できるようになった。

 相曾誠治氏の言うように、古事記から言霊を感じる読み方とは、目でストーリーを追うのではなく、正しく書かれた古事記を、ただ声を出して読み続けることしかないと考えている。結局死ぬ日まで毎日1行でも2行でも読み続けていけば、わかる日もくるかもしれない。