無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10303日

 仕事を辞めてしまうと、人生がつまらなくなるということの原因の一つに、人から評価されることがなくなるということがあるのかもしれない。去年の3月で仕事を辞めた、同い年のTさんからの年賀状に、農業、歴史、アマチュア無線等、いろんなことがやりたいこととして挙げられていた。ここは夫婦で年金があるので、金の心配はないとしても、どうやら仕事を辞めて収入が無くなった後も、嫁さんの家事労働に寄生しつづける生活をするつもりでいるようだ。

 世の中いろんな人がいるもので、Tさんなんかは、わしとは全く逆の性格で、機を見るに敏といえばいいのか、いろんなところに顔を出すのが好きで、交際範囲も広くて役に立つ人ではあった。頭の回転も速かったし、話も上手だったが、それと同時に、人からの評価を非常に気にしていた。そもそも、自ら人の中に入っていくのが好きな人で、評価されることが嫌いという人は少ないだろう。Tさんも、もちろん良い評価を得たくてやっていたんだろう。お陰で、それなりに人よりも出世して、給料もよかったから、目標達成というところかな。

 Tさんは、家に引きこもって、他者からの評価を受けることなく、嫁さんからの評価だけで生きていくことは困難だろうと思っていたから、あのTodoList満載の年賀状を見た時、やっぱりなと、思わず笑ってしまった。一生勉強することは大切だが、若い時と違ってゴールが見えてきた今、何をやるかという選択は、非常に重要だと思っている。最近学び直すとか言って、知識を求めて大学に入学する人達もいるようだが、おそらくTさんのように、人に関心をもってもらわないと、有意義な人生が送れない人達なんだろう。

 わしは逆に、年金生活になって、人からの評価を受ける機会もなく、つまらない知識の集積からも解放されたということに、一番の喜びを感じている。66年間詰まった知識を開放して忘れてしまいたいとさえ思っているのに、今更新しいガラクタを詰め込むことなど考えられない。こんなことを言うと、誰かに「あの伊能忠敬を見てみろ。50を過ぎて隠居してからあれだけのことをやり遂げたのだから、できないことはない。」と反論されたことがあった。

 「歴史上何人もいないような偉人を取り上げて、お前もできるなどと無責任なことは若い人に向けて言ってくれ。60も過ぎれば、身の程を知るということも大切なことだろう。」と答えておいた。しかし、たとえ毎日が死ぬための準備だとしても、それだけで緊張感を持って毎日を過ごせるわけではない。いくら求めても、正解は誰にもわからないし、闇夜の海を航海するようなものだ。これをやればうまくいくという指標もない。しかも、そこでは知識は何の役にもたたない。

 欲を言ってもしようがない。ああ今日も良い一日だったと信じて寝ることができれば、それ以上の幸せはないはずだ。