無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10276日

 先日、うちの向いに住んでいた、Nさんが亡くなっていたということを知った。わしが中学生の頃に、遊び場になっていた空き地に、家を建てて引っ越してきた人だが、わしは16歳で家を出たので、ほとんど面識は無かった。享年85歳というから、わしより18歳ほど年上になるはずだ。Nさんは、勤め先を定年で辞めてから家に居るようなったので、それからは、顔を合わした時に挨拶をするくらいの付き合いはするようになった。声の大きな人で、悪さをした小学生や中学生を叱るNさんの声が、よく聞こえてきたものだ。

 何年か前に施設に入ったということは知っていたが、その後の事は全く分からなかった。最近、息子さんがよく帰ってきていたので、あまり良くないのかなあと、女房と話はしていたが、亡くなったら一度家に帰ってくるからわかるだろうと考えていた。ところが3日前に、女房が近所の奥さんから、Nさんは既に亡くなっているということを、聞いてきた。どうやら家に連れて帰ることなく、そのまま葬祭場に行ったようだ。あっさりしているなと驚いた。

 知った以上ほおっておけないので、次の日にお悔みに伺って話を聞くと、葬儀は家族葬で、内輪だけで済ませたそうだ。香典返しに入っていた、長男の喪主挨拶を読んでみると、長年トラックドライバーとして家族の生活を支えてくれたことへの感謝や、料理が好きで、自分たち夫婦が帰省した時には腕を振るってくれたことなど、親を思う気持ちが切々と伝わって来た。

 この50数年の間に、Nさんも結婚して、家庭を持ち、子供が生まれ、成長して独立し、また夫婦だけの生活に戻り、そして死んでいった。わしにとっては、いつの間にか時が流れ、いつの間にか亡くなっていたNさんだが、その間、おそらくNさんの家庭にも、多くの家庭と同じように、嬉しいことも悲しいことも、様々なもめ事もあったろうし、時には親子の衝突もあったに違いない。当たり前のことだが、それぞれの家にそれぞれの歴史があり、みんなそれを背負って生きているんだろう。

 ミンコフスキー著「生きられる時間」に「人が一個の単位、一人の人間になるのは、決して生まれることによってではなく、死ぬことによってである。道に標尺を立てるときには、杭を一本一本最後の杭まで立てていくが、ここでは最後の杭だけが大切なのであり、それが立てられたときに、他のすべての杭が魔法によるかのように、地面から起き上がり端から端まで、道全体に標尺が立てられるのである。」と書かれてある。死ぬことは本人にとっても、周りの人たちにとっても大変なことだ。