無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10266日

 普段は忘れているが、この世に生まれてきた以上、死の瞬間は必ず訪れるということは自然の摂理で、高貴下賤富豪貧民氏素性関係なく、これはこの世で一番平等なシステムであるといえるのかもしれない。そして人は皆、生きる希望と死への恐怖とのバランスをとりながら、ひたすらその瞬間へ向かって、一方通行の一本道を走り続けている。なぜここを走っているのか、疑問に感じることもない。しかし、ひとたびそのバランスが崩れる時、精神の安定は失われ、生きる希望の裏に死の影を感じたり、或いは死への恐怖が生きる希望を打ち砕いたりするのかもしれない。

 4日ほど前、朝の掃除をしていて、網戸の向こうを小さな足の長いクモがゆっくりと歩いているのに気が付いた。そのクモは4~5cmほど歩くと、ピタリと立ち止まった。この時は網戸を揺らすとまだ少し動いていたが、5~6分すると全く動かなくなった。次の朝見てみると、体を糸で固定してあるようで、足は網戸から外れていて、風が吹くと少し揺れていた。その次の朝になると、体の艶が失われて、乾燥しているように見えた。この時に完全に死んでいるということに気が付いた。

 ひょっとしたら、死に場所へ向かって歩いてきた、クモの最期の瞬間を見たのかもしれない。そう思ったとき、虫とはいえ、その潔さ、清々しさに圧倒された。死ぬことは少しも面倒なことではない、ただ歩き続けて、その時が来たら黙って死ぬだけでいいのかもしれない。この時、以前の職場で見た、あるダンゴムシの死にざまを思い出した。季節になると、わしのいた部屋には、夜のうちに数十匹のダンゴムシが侵入してくるので、毎朝出勤すると、それを集めて外に捨てるのが日課になっていた。

 その朝も、塵取りを持って集めていると、普段は壁際に集まっているのに、一匹だけが部屋の真ん中にいた。不思議に思ってよく見ると死んでいる。しかし、足の感じもまだ生きているようで、ちょっとつついたら今にも動きだしそうだった。ついさっきまで生きていたんだろう。そして、そのダンゴムシの後方5cmから10cmあたりに点々と糞のようなものが付いている。どうやら最後の脱糞をしながら力尽きたようだ。小さな体で、外からこの死に場所まで、2か所のドアの下をくぐり、10m以上の長い死出の旅を果たし、最後の脱糞をして力尽きたダンゴムシに、お疲れさまと声をかけて、そっと外に出してやった。

 果たして、死後も幸せを願い、自分の死に意味を持たせたいという思いは、人間だけが持つものだろうか。その人間とて、感情の衣を脱ぎ捨ててしまえば、残るのは、生まれて死んでいくという生命の営みだけではないのか。死を純粋に生命の終焉として見た時、死は言葉で装飾できるものではない。死ぬべき時がきたら、死ぬべき場所で、力尽きるのを静かに待っているだけでいいのではないだろうか。