無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10248日

 先日、小倉城の堀から銃弾の薬莢が大量に発見されたとニュースを見ていて、若い頃、渋柿という俳句結社に参加していた頃のことを思い出した。小倉という所は、陸軍造兵廠小倉工廠等の軍関連の施設があり、大陸に近いこともあって、まさに日本防衛の最前線と言える都市だったようだ。余談だが、これが朝日新聞にかかると「造兵廠や数多くの軍施設を擁した小倉は「軍都」と呼ばれ、朝鮮半島や中国大陸との距離的な近さから、侵略の拠点となった。」となっていた。googleで嘘の新聞で検索すると、”もしかして朝日新聞”と表示されるくらいだから、さもありなんと、今更驚くこともないが、一体どこの国の新聞なのかね。

 その小倉工廠では三八式歩兵銃が作られていた。総生産数340万丁というから物凄い数だが、出来上がった銃は、一丁一丁全て試射が行われ、合格した物にだけ菊花紋章を入れて使用されていた。そして、渋柿二代目の主宰者だった野村喜舟が、若い頃その試射をやっていたということを教えてくれたのは、わしが俳句を習った松岡凡草先生だった。面白く話してくれた凡草先生の口調で言うと以下の通りだ。

「○○君、喜舟先生という人はな、俳句もうまいが、実は鉄砲の名人じゃった。小倉工廠で三八式歩兵銃をなんぼ作ったかしらんが、喜舟先生が三発試射して、もしも一発でも的を外したら、その銃は不良品として処分されたんじゃ。つまり、三発のうち、一発でも的を外したら、喜舟先生の腕が悪いのではなく、銃が悪いと判断されるということじゃ。これはすごいことじゃろう。きちんと作られたものであれば、喜舟先生が撃てば百発百中だということを、陸軍が認めていたということにもなるけんのう。」

 確かに鉄砲の名人といえるだろう。渋柿初代主宰者は大正天皇の侍従だった、元宇和島藩家老の家に生まれた松根東洋城で、二代目を野村喜舟に譲った。松根東洋城の弟子には、日展画家とか、高名な医者とか、銀行員とか大学出のインテリが多かったんだが、小学校しか出てない野村喜舟に譲ったことに関しては、凡草先生の奥様の立花女先生から面白い話を聞かされた。

「○○さん、俳句の世界は面白いでしょう。大学を出て、医者だ教授だと偉そうにしている人たちが、小学校しか出てない喜舟先生に教えを乞うんですからね。でも、小学校しか出てないけれど、俳句の事に関しては誰にも負けないくらい勉強している人なんですよ。」こう言って、東洋城が野村喜舟を指名して、隠居した時のことを話してくれた。

 もう40年近く前のことで、本来の目的だった俳句の事は忘れたが、この松岡凡草先生や奥様の六花女先生が面白く話してくれた、東洋城や渋柿の俳人に関するエピソードは今でも時々思い出すことがある。渋柿は今でも続いているが、この当時の話を知っている人はもういないだろうな。