無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10242日

 昨日、だいぶ前に退職した先輩Iさんの訃報が伝えられた。一回りくらい年長だったはずだから、70代後半だろうか。残念ながらわしは新聞をとってないので、訃報欄を見ることもない。昨日も気を利かして、友人が連絡をくれたんだが、葬儀の場所もわからないし、家でIさんの冥福を祈っておいた。これから、知り合いで亡くなる人も増えていくだろうが、義理で参列することもないと思っている。わし自身は葬式もいらないし、戒名もいらないと家族には伝えてあるが、お世話になっている寺の墓地に埋葬するなら、そうもいかないだろう。

 寺から墓地のスペースをもらうということは、檀家になるということだから、仕方がないこととはいえ、親父が四十数年前に寺に寄付をして、墓地をもらってなければ、仏教にとらわれない墓を建てることができたのかもしれない。親が望んで檀家になり、それを受け継いだのだから、子供らがどうするかは知らないが、わしの代までは守らなければならないと覚悟している。うちの墓には、子供がいない兄夫婦も入れてほしいと頼まれているので、子供の代になっても墓じまいはできそうもない。思い切ってやれるとしたら孫の代かな。

 去年のJさんの葬儀の時に、いとこのRさんから、自分は子供がないので、生きているうちに墓じまいをしなくてはならないという話を聞いた。Rさんの兄は、二人とも満洲から引き上げる途中で亡くなっているし、姉は嫁いでいるので、Rさんが亡くなれば家は途絶えてしまう。これは切実な問題だ。子供が減っているこの時代、日本全国あちこちで、これからこのような状況が増えてくることだろう。

 ほとんど外に出ることもなく、目立たないように、自分だけで完結できる生活を楽しんでいたんだが、どうやら4月から外に引っ張り出されそうだ。周りから見れば家で遊んでいるように思われていたんだろう。町内会長を2年間お願いしたいと言われてしまった。本音はあまり人と関わりたくないんだが、断るとむこうに迷惑をかけることになるので、引き受けてしまった。歳がきたら一度はやらなければいけないとは思っていたから、とうとう来たかという感じだが、まあ、ぼつぼつやることにしよう。この辺りも年寄りばかりなので、一度やると、この先何回も頼まれるんだろうな。