無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10200日

 セクハラだと言われて財務省事務次官が辞めたが、ほんと情けないおやじだと思う。以前、チャイナから情報を要求されたが、国を売ることはできないと言って、自殺した外務省の役人がいた。この人はいわゆる高官ではなかったが、日本人として矜持を持った立派な人だったと思う。今の日本は、トップはだめでも、こういう人たちがきちんと仕事をすることで、守られているのかもしれない。

 一方、天皇の官吏であった時代の高等文官試験でもあるまいに、公務員試験という、たった1回の単なる試験を受かっただけで、まるで昔の身分制度に先祖がえりをしたような錯覚に陥り、自分たちは無謬であるとうそぶいて出世競争に明け暮れ、挙句の果てにノーパンしゃぶしゃぶや、つまらん女に引っかかったり、貧困調査とか、何とかメールとか、議員なら落選させればいいが、こいつらは立場が保証されているだけ始末が悪い。

 もっと始末が悪いのがマスコミで、今回の次官セクハラもその内容が出てくるにつれて、まるで美人局のような感じがしないでもない。そもそも被害者といわれている女性も、セクハラ被害を受けたといいながら、長期間一緒に食事に行っているし、それもどうやら業務命令の可能性もあるようで、そうなると何が何やらわからなくなってしまう。とどのつまり、どちらも落ちるところまで落ちてしまったということになるのかな。終戦後、WGIPを密かに実行し、精神を骨抜きにしようとした、進駐軍の思惑通りの国になってしまったようだ。

 更には昨日のこと、ニュースをみて驚いた。野党とか呼ばれる集団が、自分たちが提出した法案の審議をボイコットしたらしい。国会とは立法機関のはずだが、本来の業務をさぼってでもやらなければならないことがあるんだろうか。モリでもカケでも、セクハラでも、日報でも、ちょっと気持ち悪いが、喪服も着たパフォーマンスでもやればいいだろう。しかし、それはそれとして、立法機関としての仕事はきちんとやれよといいたい。まあ、自衛官に「国民の敵」と言われるようになったらおしまいかな。

 わしらがいくらおかしいと云ったところで、何も変わりはしない。世の中を変えるためには法律を作ることが必要で、その為には国会議員に働いてもらわなければならない。一般国民はその国会議員を選ぶ権利があるということで、非効率でまだるっこしい制度とはいえ、一応民主主義として根付いてきた。しかし、今の制度を大きく揺るがしているのがメディアだと思う。

 組織されたノイジーマイノリティーが騒ぎ、テレビ新聞等の規模の大きな発信設備を持った少数の者同士が談合して、偏った情報を流し続けると、情報源がテレビ新聞だけの人たちはそれに流されやすい。その結果、選挙によって示された、サイレントマジョリティーの意見は無かったことにされてしまう。これは民主主義の基本である、選挙によって示された国民の意志を愚弄しているように思えてならない。

 緊迫した世界情勢など何処吹く風、安倍辞めろとしか言えないこの人たちも困ったもんだ。ただ数字上はほとんど支持されてないということは、日本人もまだまだ大丈夫ということなのかな。