無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10196日

 わしは今まで66年生きて来て、この日本という国が嫌いになったことは一度もない。若い頃、日本人が面倒くさいと思ったことはあったが、それとて、風習やしきたりで面倒くさいこともあるなあと思ったくらいで、別に日本人をやめたいと思ったわけではない。確かに若い頃には、外国に移住してみたいという気持ちもあった。それが外国航路の船乗りになりたいと思った原因の一つでもあった。しかし、貨物船やタンカーで14の国を回ってはみたが、逆に外国に対するあこがれはだんだん萎んでいった。

 要するに、日本や日本人の良さが再確認できたということだ。犯罪が少なく、夜道も自由に歩けて、職業選択の自由、行動の自由、思想や言論の自由が、単なるうたい文句ではなく現実に保証されているという国は、世界をみてもそれほど多くはない。これは素晴らしいことだ。それもこれも、国家という骨組みがきちんとしているからこそ、可能となっているので、自由といっても何事にも限度がある。国家の骨組みを揺るがすほどに振れ過ぎた振り子は、また逆の方向に振れるだろう。行き過ぎた自由というのは、近い将来修正されてくるに違いない。その時が、戦後日本人が、自由には責任が伴うということを初めて思い知らされる時かもしれない。

 今日も朝起きると女房は既に仕事に出ていた。おもむろに起き上がり、ソファに寝ている犬の横に座って、また今日も一日が始まる。この生活も今日で755日になった。この生活が、明日も明後日も続くだろうことを疑うことは無い。このように、普段は当然のように明日がきて、また当然のように明後日がくると思っているが、実はこの平穏には、何の根拠もないということに、ふと気づくことがある。

 特に東日本大震災のときは、あたふたするだけで、頼りにならない政府の対応に、治安は本当に大丈夫なのか、生まれて初めて心配になった。そもそも20万人しかいない自衛隊のうち15万人を災害支援に動員すれば、一体誰がこの日本を守るつもりだったのか。旧帝国陸海軍のように予備役、後備役を備えていない自衛隊には後がない。事実、チャイナやロシアの航空機や艦船が不自然な動きをしていたから、この時ほど日米同盟のありがたさを感じたことは無かった。

 「誰がやっても同じだ、それなら一度やらせてみよう」「コンクリートから人へ」「埋蔵金がある」「自民党にお灸をすえる」マスコミが流し続けたプロパガンダだ。あやうく日本という国が沈没するところだった。政治は誰がやっても同じではないし、でっかいお灸をすえられたのは国民だった。これも55年体制日米安保のおかげで、平和や安全に関して無頓着でいられた国民への警鐘になったはずだ。

 以前新聞で読んだことがあるが、インドの国防大臣の部屋には、被爆した広島の写真が飾られている。それを見ることによって、インドは絶対に悲惨な核攻撃を受けないという決意を新たにしていると説明されていた。そして大臣は、地球上で唯一、核攻撃を受けた日本だけが核武装の権利があると話したそうだ。

 キューバ危機は、のど元に核ミサイルを突き付けられたアメリカと、ソ連の争いだったが、地図で見たらわかるように、北朝鮮と東京の距離や、チャイナの核基地があるといわれている場所と東京の距離は、どう見てもキューバとワシントンよりも短い。その時ケネディは核戦争も辞さないと決意したといわれているが、指呼の距離に核ミサイルを配備されても、自ら解決することはできないこの日本は、本当に大丈夫なのか。戦後生まれのわしらの世代は、与えられた平和にただ乗りしているように思えてならない。

 さて、26日の夜からフェリーで伊勢神宮参拝の旅に出ることになった。27日参拝、その晩は、堺の92歳になる叔父の家に泊めてもらう。また、戦争中運河建設の調査で、タイのクラ地峡に行った時の話をきかせてもらえるだろう。28日から5月2日まで二男の家に居て、2日に二男の車で一緒に家に帰る予定になっている。雨は降らないようだから、楽しい旅になるだろう。