無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10168日

 6月が近づいてくると、76年前の6月5日~7日の間に繰り広げられたあのミッドウェイ海戦を思い出す。当事者もほとんどいなくなり、戦争の記憶も失われていくと共に、あの大海戦すらも、海戦としての純粋な歴史的な側面とか、テクニカルな面とかは、それほど語られなくなった。それに代わって、国家成立の基盤とでもいうべき、国家国民を守るために戦うことを、愚かなことのように言い、戦った先人に敬意を払わない少数者の意見が、学校教育やマスコミにより、社会を洗脳していった。

 今では、国旗を掲げる家もなくなり、外国の軍隊が駐留することに疑問を持たなくなり、北朝鮮が日本人を拉致し、核を持ち、ミサイルを発射して来ても、手も足も出ない国になってしまった。戦後73年たち、GHQの日本人愚民化計画も、概ね成功したと言えるのかもしれない。しかし、今の若者はそれほど馬鹿ではないと信じたい。

 さて、ミッドウェイだが、こんな島を占領しても、維持できないだろうことは、地図を見たらわしでも理解できる。島を維持するために年間のべ何隻の貨物船が必要になるのか真面目に計算したのかどうか怪しいものだ。既に珊瑚海では痛い目にあっているんだから、空母もおびき出して一石二鳥というほどアメリカが甘くないということも、末端はいざ知らず、トップはわかっていたはずだ。世間では山本大将をやたら持ち上げるが、南雲中将と同じで、現場指揮官としては?がつく。

 その南雲中将はミッドウェイでは死なず、2年後にサイパンで死んだ。わしはミッドウェイで生き残った南雲中将、戦死した山口少将二人の死に様に対照的なものを感じている。そして、このことは人は如何に死ぬべきかということを、考える機会を与えてくれた。以下、あと10907日を紹介する。

 

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あと10907日

 

 1日1日生きられる時間は少なくなっているが、人生、とにかく長く生きればよいというものでもないだろう。わしは時々思うんだが、山口多聞南雲忠一の人生の最後の生き様はおおいに参考になるんじゃないかな。二人とも大東亜戦争中に戦死した帝国海軍将官だが、違いは山口は海で死に、南雲は島で死んだということだ。南雲中将は昭和17年6月のミッドウェー海戦での第一航空艦隊司令長官、山口少将は第一航空艦隊第二航空戦隊司令官、つまり南雲の部下だった。

 すでに多くの本に書かれているように、帝国海軍は空母4隻と多くの熟練パイロットを失って大敗した。赤城、加賀、蒼龍の3空母はあっというまに沈んだが、少し離れていた、山口座乗の飛龍は生き残った。それを知った山口は以後全軍の指揮をとると打電し、今までの鬱憤を晴らすかのように孤軍奮闘し、航空部隊も獅子奮迅の働きをして敵空母ヨークタウンを大破させた。そして全兵力を使い果たした後、生き残った将兵を総員退艦させ、艦長加来大佐と二人で自決した。闘将といわれ、山口が司令長官であればと惜しまれた。しかしわしは海軍軍人として、持てるすべてを出し切って最高の働きをした後、じり貧になっていく海軍をみることなく、あっさり死んでいった山口は幸せだったのではないかと思う。

 一方南雲は、山本五十六連合艦隊司令長官から、死ぬなと言われ生き残った。参謀達に支えられ駆逐艦に移乗し、まだ指揮を執るという意欲はあったようだが、手持ちの兵力も無く山口に任せるしかなかった。意気消沈しただろうと思う。おかしいのはこの後で、普通なら、これだけの損害を与えたのだから、司令長官は罷免されるはずだ。しかし罷免される事無く、その後、海軍大将、中部太平洋方面艦隊司令長官に栄進した。世間的にみれば功成り名を遂げて、良い人生だったんじゃないかと思われるが、わしは海軍軍人南雲忠一は、やはりサイパンの洞窟ではなく、海で戦って死にたかったんじゃないかと思う。結局2年ほど長生きはしたが、ミッドウェーで華々しく戦って死んでいった山口少将を、薄暗い洞くつの中で、羨ましく思っていたのではないのかな。

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