無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10141日

 昨日は、女房が出かけた後、二度寝をしてしまって、目が覚めたのは10時過ぎだった。昼頃になって、やっと大阪で地震があったことを知り、堺の叔父が気になったが、すぐに電話しても迷惑になるだろうから、夜になって、いとこにsmsで連絡をとってみた。震源が大阪北部だったので、幸いなことに今回は堺市あたりは影響はなかったようだったが、家が古いので耐震基準を満たしてないはずだから、直下型がくれば危ないような気がしている。

 今回の地震が南海地震の前触れのようにいう人もいて、当たれば恐ろしいことになるが、こればかりはわからない。地質年代とかいう途方もなく長い周期からみると、人間の考える時間で図ることがバカバカしくなるのだが、かと言って何の準備もしていないのも不安になるので、うちでも水だけは少しだが確保している。大して役にはたたんと思うが、おまじないみたいなものだ。

 ニュースを見ていると、これだけひどい大阪の地震は観測史上初めてだと、アナウンサー得意げにしゃべっていたが、観測が始まったのが、明治時代らしいから、こと地震に関しては、「観測史上初めて」という仰々しい言葉に、何の感動も覚えないのはわしだけではないだろう。側にいた地震学者が、400年前にはあったと話していたが、400年前でも、80年前でも、地質年代ではほんの一瞬の出来事で、誤差の範囲にもならない。

 そもそも地震学者といったところで、地震予知に関しては白旗をあげてしまったので、わしら素人と何ら変わらない存在になってしまった。予知ができるということにして、一体どれほどの研究費を引っ張ってきたのか知らないが、莫大な額だったことだろう。冷静に考えると、学者が地震を予知したからといって、行政がそれを信じて事前に動けるものなのだろうか。また、一週以内に巨大地震が発生すると言われて、その準備をしていたが、来なかった時に自信を持って解除できるのだろうか。翌日来るかもしれないし、翌々日かもしれない。その責任は誰がとるんだろう。

 南海地震も必ずやってくるんだろうが、それは今この瞬間かもしれないし、来年かもしれない。10年先かもしれない。ひょっとしたら、わしが生きている間には来ないかもしれない。そんな不確定な状況の中では、備蓄するにしても、心構えを持つにしても、結局今できることを、出来る範囲でやっていくことしかできないということだろう。座して待つしかないということかな。平成13年の芸予地震のときは、家の中で動けなかったから、万が一、家が倒壊するようなことになれば、逃げることはできないかもしれない。あとは運だけだな。

 今回の大阪の地震で亡くなった小学生も、地震発生があと1分遅いか、或いは早かったら助かったのかもしれない。家を出るのが1分早いか、遅いかしていたら助かったのかもしれない。生死の境目というのは情け容赦なく誰にでも突然やってくるものだろうが、子供だけは勘弁してやってほしい。