無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10125日

 戦死公報によると、わしの母方の伯父は、昭和19年にニューギニアのサルミ付近で戦死したことになっている。18年の暮れ近くに連隊本部を出て、19年にはあっけなく戦死してしまった。去年亡くなった、いとこのJさんの弟のSさんは当時3歳くらいで、松山駅まで見送りに行ったような記憶があると語っていた。そして帰りに駅前で、サーカスか動物園か定かではないが、動物がいる何かを見せてもらったらしい。

 南洋第六支隊については、生存者も少なく、戦後もほとんど話題になることもなかった。子供の頃は、伯父さんは南の島で死んだとしか聞かされてなくて、お盆には伯母さんが一人で、送り火をたいていたのを覚えている。わしが、その島がニューギニアだと知ったのは、おふくろが亡くなる数年前だった。それから資料探しを始めて、南洋第六支隊の存在を知り、生き残った人の書いた、2冊の本を辛うじて見つけることができた。過酷な戦場だったようだ。

 それらの本には、支隊の移動についていろいろ書かれていて、上の方の都合で、将棋の駒のように動かされる軍隊の不条理というものが感じられた。考えてみると、軍隊というのは命令で動くものだから、そのほとんどの命令は電報で送られてきたものであるはずだ。わしは以前、仕事を辞めたら防衛省に通って、そのような戦史の生の資料を見てみたいと考えていたことがあった。しかし現実的には距離的な問題や経済的な問題もあり、実現は不可能だった。

 2日前の深夜、歴史関係のブログを読んでいて、ふと、このネットの時代だから、戦史資料の多くはデジタル化されているのではないのかということに気が付いた。なんで今まで気が付かなかったのか不思議なくらいだ。ちょっと調べてみると、国立公文書館アジア歴史資料センターというところに行きついた。そして南洋第六支隊を「生きて帰れぬニューギニア」に送り込んだ、一通の電報を発見した。

 

大陸指第千八百七號

大陸命第八百九十五號ニ基キ左ノ如ク指示ス

 第八方面軍司令官ハ大陸指第千七百十九號ニ拘ラス南洋第六支隊ヲ成ルへク速ニ

「ホルランヂア」ニ派遣シ地區ノ防備ヲ強化セシムルモノトス

 昭和十九年一月十九日

 

これによってパラオの警備を解かれて、ニューギニアのホーランジアに送られた。

 南洋第六支隊は、途中で華陽丸遭難により、支隊長松尾大佐以下、将校11、下士官27、兵7、計45名戦死とあり、兵器器材等は海没とあるから、すでに支隊としての体は、なしてなかった。兵員も資材も補充があるように書かれてあるが、実際には何も無かった。兵器も無く着の身着のままで、将校56、下士官174、兵12といういびつな構成の上、何の後ろ盾もない集団は所謂遊兵のようなもので、それは心細かったことだろう。

 手間暇かけて、こんな部隊をなぜニューギニアまで送る必要があったのだろうか。おそらく机上の員数合わせのために、あの電報一本で、守る意味もない南の果てまで送られ力尽きた伯父も、15年ほど前に慰霊に訪れた頭髪の薄くなったの3人の息子に会えて、さぞや喜んだことだろう。

 帰国後の報告会で見た、まだ元気だった伯母やおふくろの嬉しそうな顔が今でも思い出される。