無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10121日

 南洋第六支隊関連の文書の中に、軍事機密と押印された「第十八軍戦鬪序列」というのがあり、調製年月日は昭和18年4月13日となっていた。原本は恐らく手書きのガリ版刷りだと思われるが、軍隊のやり方がこうだったのか、或いは印刷し直す余裕が無かったのか知らないが、調整日以降の変更は、墨で消した横に新しく書き加えられてあるので、どの部隊が編成を解かれて、代わりにどの部隊が加えられたか、その変遷がわかるようになっている。そして南海支隊を消した横に南洋第六支隊と書き込まれてあった。こんなことは原本を見ないとわからないことだ。

 わしは「第十八軍戦鬪序列」で、昭和18年6月17日編成解除となっている南海支隊という文字を見て驚いた。南海支隊は昭和17年8月21日に、各自20日分の食料を持ってバサブアに上陸した。その年の11月には敗走し、支隊長が行方不明、支隊も解散となり、すでに壊滅状態だったから、当然18年4月には実質的には存在してないはずだが、堂々と「第十八軍戦鬪序列」に書き込まれている。しかもその陣容たるや、すでに消耗しつくしたはずの高知144連隊を主力に、山砲兵、工兵、通信隊、輜重兵、衛生隊、野戦病院、病馬廠、防疫給水部を含んだ、兵員数千人のたいそうなものだった。机上では、これだけの部隊がいまだに存在していたということだろう。

 この幽霊支隊の代わりに編入された南洋第六支隊とは、同じ支隊と名が付いてはいても、指揮官は大佐でおそらく予備役だろうし、松山第22連隊にしても主力は満洲にあって、残っていた留守部隊をかき集めたものだったそうだ。兵員は将校56、下士官174、兵12。現地で遊兵をかき集めて指揮するとか、都合のいいことを予定していたらしいが、机上の空論だということは、みんな知っていたはずだ。

 こう見てみると、「第十八軍戦鬪序列」で南海支隊から南洋第六支隊に変更とは、単なる員数合わせにすぎないということが良く分かる。こんな妙な編成の部隊に来られても、使い道がないことはその道のプロが見ればわかったはずだが、案の定、揚陸作業なんかに駆り出されて、軽くあつかわれていたようだ。こんな勝てるはずもない編成で、南の島に送られることがわかった時、伯父も死を覚悟したのかもしれない。それでも生きて帰れるチャンスはあった。

 病気のため、パラオからの内地行の最終便の飛行機に乗れることになっていたが、それを人に譲り、病身でホーランジアに向かう輸送船に乗るにあたっては、残してきた妻や子供のことが思い出され、様々な葛藤があったと思う。後にその事実を知った伯母は、わしのおふくろに「馬鹿なことを、帰ってくればよかったのに。」と話したそうだ。しかし、松山第22連隊は、昭和20年沖縄で玉砕したから、例えその時生きて帰ってきたとしても、そのまま終戦を迎えることは困難だったかもしれない。

 すべてが運命だといえば、そういうことになるんだろうな。