無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10105日

 ここ3日ほどは、早朝6時頃に祝詞をあげて、太陽参拝も済ませるようにしている。それまでは先に食事と掃除を済ませて、10時頃に始めていたが、10時を過ぎるとベランダが焼けて、裸足で降りることができない。仕方なく座布団を敷いて座るようにしているが、熱中症でめまいがしそうだ。しかも、この頃には太陽がすでに真上近くにきているため、仰角が大きくなりすぎて、首から左肩のあたりが痺れてくるので、八咫鏡の印を結ぶのに難儀をするようになった。ぶら下がり健康器の副作用というやつだ。

 そこで3日前に急に思い立って、6時から祝詞参拝を先に済ませるようにしたところ、太陽の位置が低いので、長時間太陽を拝んでも痺れを感じることは無くなった。結果が良好だったので、これからはこれで行こうと決めたのはいいが、2年半の習慣とは恐ろしいもので、3日目にして、今朝はすっかり忘れてしまっていた。気が付いたのが掃除も終わった10時過ぎで、すぐに神前で祝詞をあげてからベランダへ上がったら、気温35度。裸足で床に降りたら火傷しそうだった。

 暑さよけの座布団に座ってふと横を見ると、アブラゼミが仰向けになって落ちているのに気が付いた。昨日の夕方に戸を閉めた時は無かったから、夜のうちに死んだものだろう。今までにダンゴムシとクモの最期の瞬間は見たことあるが、セミの最期は見たことが無い。生命活動を終えた瞬間に木から落ちるのか、或いは死期を悟ると自ら地面に降りるのか。死んだらなぜ仰向けになるのか。ここへ来たときは命があったはずだから、その瞬間はおそらく太陽が出て、ベランダが焼かれる前のことだったんだろう。いろいろ考えてしまった。

 ひょっとしたらまだ生きているのかと思ってつまんでみると、少し足が動いたような気がした。そして、羽が床を擦るような音を聞いたような気がした。驚いて一瞬指を離してもう一度よく見てみたが、ピクリともしていない。第一こんなフライパンの上のような所で炙られて生きているはずがない。くらくらするほどの真夏の太陽に熱せられて、幻でも見たんだろうと、ベランダから下の梅の木の茂った葉っぱの中に投げ込んでおいた。暑いベランダで焼かれていくのを毎朝見るのはつらい。

 こうして、セミは死んでいるのを見ていろいろ考えてしまうが、これがゴキブリだと問答無用で蹴散らしてしまうのは、不思議な気がする。以前殺虫剤の会社で部屋が真っ黒になるほどのゴキブリを飼っているのを見たことがある。もちろん実験に使うきれいなゴキブリなんだろうが、そこで仕事をしている人たちは普通に部屋の中に入っていたから、まあ、気持ちの問題なのかな。しかし、わしはダメだな。今この瞬間にも、見つけたら死んでもらうことになるだろう。