無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10072日

 昭和48年の4月のある日、21歳だったわしは浜松町で山手線を降りて、大きな荷物を担いで徒歩で竹芝桟橋へ向かった。3か月の日立造船向島工場での実習を終えて、やっと船に乗れる嬉しさに、高揚した気分で竹芝桟橋に到着した。向かい側には晴海埠頭があり、その沖に停泊している純白の練習船青雲丸がまぶしく見えた。

 しばらく待っていると、船から迎えの交通艇が、軽やかなエンジン音を響かせてこちらへやって来た。4月の柔らかい日差しを背に受けて、白い波を蹴立てて走るその船を見ながら、7月からの遠洋航海に思いを馳せていた。バルボア、リオデジャネイロ、ポートオブスペイン、アカプルコ、ホノルル、これから訪れることになる外国とはいかなる所なのか、胸を躍らせ、児戯にも等しい妄想にふけっていた。

 その頃のわしは、子供の頃からの夢を実現できたという満足感と、一人前になったというような思いあがった気持ちが相まって、親の恩なんかも忘れてしまい、周りの大人や社会を甘く見る傾向があった。屁理屈を言って相手をやり込めていい気になっていたあの頃の姿は、今思いだしても恥ずかしいことだ。さぞかし生意気な若造だったことだろう。

 数日停泊している間に、わしは当時文通していた、SHさんという2歳年下の女性に手紙を書いた。「小春日和というのは冬の言葉ですが、日が照って暖かくなった甲板の上に寝転んで空を眺めていると、季節に関係なく、今のこの瞬間こそ、小春日和という言葉が最もふさわしい瞬間ではないかと感じています。」というような内容で書き始めたのを覚えている。この文通も1年くらい続いたが、いつの間にか終わってしまった。

 その後、船は東京を出て房総半島最南端の野島崎を回り、北海道の小樽へ向かった。途中、三陸沖辺りから猛烈な低気圧に巻き込まれ、ひどい船酔いに悩まされながら3日後にやっと小樽に入港した。今と違って、国内旅行さえしたことのなかったわしらのような田舎者にとっては、小樽といえども外国のようなものだった。

 「小樽には船乗りの嫁さんが多いので、飲み屋に行くと旦那の留守に一人で遊んでいる嫁さんがたくさんいる。君らも物欲しそうな顔をしていると、ひょっとすると声をかけられるかもしれないから、気を付けるように。素人はやめとけよ。するときには必ずサックを使うように。」冗談か本気か知らないが、これは上陸前に聞いた教官の言葉だ。おおらかな時代だったと言えばいいのか、今では公務員がこんなことを言えば、売春を勧めるのかなどと、ある種の団体が騒ぎだして、懲戒処分を受ける羽目になるんじゃなかろうかな。

 友達のM君が、秋田のきりたんぽを食べさせてくれる店があるというので、雪がまだ残っている道を歩いて、3~4人でその店に入った。すると奥のテーブルに数名の制服を着た自衛官の先客がいた。隣の桟橋に護衛艦が一隻入港したから、おそらくそれの乗組員だろうと思いながら、わしらも隣のテーブルに座った。わしはきりたんぽというものがどんなものか、この時初めて知った。

 そこまでは良かったんだが、この後、隣の自衛官の人達に大変失礼なことを言ってしまった。困ったような表情で黙って聞いていたが、本当ははらわたが煮えくり返っていたのかもしれない。あれからもう45年もたち、当時の皆さんも全員退官されているはずだ。暇に任せて、ひょっとしてこのブログを読むことがあるかもしれないので、まずは、お詫びをしておきたい。

 「昭和48年4月、小樽のきりたんぽの店での一件について、あの時の生意気な若造が、この場を借りてお詫びを申し上げます。申し訳ございませんでした。」

以上

あと10072日、反省の旅はまだまだ続きそうだ。