無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10064日

 昨日久しぶりに近所のブックオフをのぞいてみたが、客も少なくなっているし、本の売り場そのものが縮小されていた。そろそろ古本で出ているかもしれないと思い、とある本を探しに行ったんだが、残念ながらその本は無かった。しかし同じコーナーに「KOKODA」というハードカバーの分厚い本が鎮座していた。ココダという、なんか懐かしい響きに引き寄せられ、思わず手に取ってしまった。

 ココダというのは、昭和17年6月に「リ号研究作戦」として始まった、オーレンスタンレー山脈を越えて、陸路ポートモレスビーを目指すという、まるで第二次ポエニ戦争ハンニバルを彷彿させるような、遠大な作戦に出てくる東部ニューギニアの寒村だ。この辺りが帝国陸軍が部隊として行動した、地球上最南端の場所ではないだろうか。

 値段が2800円していたので、買おうとは思わなかったが、気になるところだけ30分ほど立ち読みをした。それは最前線で、オーストラリア軍と死闘を繰り広げている部下を捨てて、人事異動で内地へ帰った小林、堀江、二人の大隊長のことがどのように記されているかということだった。しかも堀江少佐は陸大受験のためという理由だった。

 読んだ限りでは小林少佐についての記述はなかったが、やはり堀江少佐については怒りの記述があった。悪路の中、トラック輸送を担当していた輜重兵の少尉が堀江少佐に呼び止められて、大本営からの命令で内地へ行くから乗せていけと言われた。少尉は不思議に思い、そっと当番兵に聞いてみると、陸大受験のためということだった。部下が次々と死んでいく中、受験といういわば私用のために、戦場から逃げ出す行為に怒りを感じたというようなことが書かれていた。人事においても平時と戦時の切り替えができてなかったということだ。アメリカでは、ニミッツ少将が28人抜きで中将を飛ばして大将に昇進して、太平洋艦隊司令長官に抜擢されたいた。

 戦後、オーストラリアは白豪主義などといって有色人種への偏見が強く残っていた。民間人を殺した卑劣なダーウィン無差別爆撃とか言って、今でも被害者ぶっているが、一時的にせよ、日本軍に追い詰められたのがよっぽど悔しかったんだろう。彼らは焼夷弾によって、2時間で10万人が焼き殺された東京大空襲は何と表現するんだろうな。また、ニューギニアやソロモンの戦争では、日本人捕虜の数が驚くほど少ないのは、捕虜にせずに皆殺しにしたからだ。連合軍の捕虜になるのも難しかった。日本人のしゃれこうべを土産に持って帰り、置物にしていたくらいだから、人間とは思ってなかったんだろう。まあ、そんな話は無かったことになっているようだが。

 勝てば官軍とはよく言ったもので、あの戦争での一番の教訓は何かと言えば、負ける戦だけは絶対にしてはいけないということになるのかな。戦争へのハードルが今よりはるかに低かったあの時代、戦ったことが悪かったのではなく、負けたことが悪かったんだから、その点に関しては東京裁判のような茶番が終わった後、日本人自らがきちんと総括するべきだったのかもしれない。

 こうして今夜も「ココダ」という地名から、いろんなことが取り留めもなく湧いてくるが、もうこんなことも忘れてしまったほうが楽になるんだろうな。一日が終われば寝て、朝日と共に新しい一日が始まるという単純な生活を望みながら既に3年目たってしまった。この調子では何時になっても、心の動きをコントロールして、シンプルに生きるということはわしには無理かもしれんな。