無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10054日

 94歳まで生きるとしても、あと27年しかないということになるが、これが長いと感じるか、短いと感じるか、人それぞれだろうし、感じ方も一定ではないと思っている。現にわし自身もその時その時で違っていて、そんなに生きるのはちょっとしんどいかなと感じることも多々ある。

 すべては気持ちの持ちようで、この間IPOが当選した時なんかには、よし、この調子なら100迄生きるかもしれんなと有頂天になっていた。それらを客観的に見ているわし自身は、人は揺れ動く不確かな存在であるということはよくわかっている。感情の赴くままに、それを適度にコントロールしながら、周りと折り合いをつけているにすぎない。

 今まで多くの人を見てきたが、まったく揺らぎのない人に出会ったことはない。表現されるすべては、その人のある一面にすぎない。本人自身も知らない一面というものは無限にある。何かに遭遇した時、予期しなかった行動をとり、後になって自分にもあんな一面があったのかと驚いた経験はないだろうか。

 そういう風に考えることができれば、侮辱されたように感じたり、疎外されたように感じたりして、弱い自分に我慢がならなくなるというようなストレスに対し、ストレスを感じている今の自分も、自分の一面だと認めることができるようになるのではないだろうか。

 さらに言えば、怒りを感じている今の自分も自分であり、人と穏やかに話しているのも自分であり、子供を叱っているのも自分であり、お金がほしいと思うのも自分であり、自分とは正も負もすべて併せ持つ不完全なものであり、かつ完全なものであるともいえる。そこには変えなければいけないものは一つとして存在しない。人は生まれながらにして完全なものであるというのはそういうことではないだろうか。

 様々な一面を持つ人間に、常に一つの面だけ見せて生活しなさいということは、その人を殺すことと同じだと思っている。こうありたいと思う自分、こうあるべきだと思う自分、いろいろ思うことはあるかもしれないが、そう思っている自分さえもが自身の一つの面だと考えることもできる。

 人は生まれながらにして完全な存在だということは、すべてを認めることによって完結されるのではないだろうか。すべてOKだと認めることができさえすれば、いつまで生きるか、いかに生きるかなどということも大した問題ではなくなるんだろうが、これはなかなか困難なことだ。