無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10039日

 今のところ体にもこれといって悪いところもないし、贅沢さえ言わなければ食べることに困るということもない。何時に寝ても何時に起きてもいい。住むところもあるし、着るものもある。頭の働きや体の動きは多少鈍くはなったが、それでも誰に頼ることなく生きていける。若い頃に感じていたような、将来に対する漠然とした不安もない。楽しく明るく暮らせる条件は一応揃っていると思うんだが、現実的にはそれほど楽しくもないというのは一体どうしたことだろう。

 第一回のブログに書いたと思うが、この生活にはいるまでは、夏休み中の子供と同じ感覚ではないかと思っていた。あの頃は朝起きたら今日は何をしようかとわくわくしていた。午前中は「夏休みの友」を少しやって、昼から友達とプールに泳ぎに行こうかとか、護国神社セミをとりに行こうかとか、近所のため池に釣りにいこうかとか考えるだけで楽しかった。

 一日中真っ黒になって遊び回った後は、おふくろの作ってくれた晩御飯を食べて、あとは寝るだけだった。学校のことも忘れて遊びほうけていたが、結構充実していたように記憶している。ひょっとしたらそういう生活が再現できるのではないかと、密かに期待してた。しかし実際に体験してみると、たいして充実感もわかないし、それほど面白くもない。

 子供のころは、大人になったら何かものすごく楽しいことがあるように思っていたが、大人になってみると大したことは無い。年寄りはみんな悟ったような人ばかりかと思っていたら、自分が年寄りの部類に入ってみると煩悩だらけで、かえって退化していることに愕然とすることもある。大人は子供の延長ではないということだろう。

 わしは人より多少自由に生きてきたような気がしていたが、今から思えば人生におけるちょっとした誤差の範囲だといえるのかもしれない。その時その時は一生懸命考えたり悩んだりしていたが、それらも振り返った時、人生の道標としての意味はあるにしても、過ぎ去ってしまったことにそれほどの意味も感じ無くなってきた。

 また、この間の同窓会でも感じたんだが、40歳の時の同窓会と66歳の時の同窓会を比較すると、どう表現したらいいかよくわからないが、一人一人の持っていた異なった振幅が、一定の範囲に収斂しているように思えてならない。これらは漠然とした感覚だが、ひょっとするとこれが老いるということなのかもしれない。

 確かに、今から思えばもっとうまい生き方はあっただろう。しかしその生き方をしたところで、今以上の自分があるとは思えない。冷静に自分を見つめているもう一人の自分をごまかすことはできない。社会に適応しようと思えば、ある時には仮面をかぶって生きていかなければならないこともあるだろうが、社会は誤魔化せても冷静なもう一人の自分は、仮面をかぶったことをよく知っている。

 そして年をとって仮面の必要がなくなった時現れた自分は、おそらくどんな生き方をしてきたとしても変わらない本当の自分であるような気がしている。そこには楽しくもない、たいして充実感もわかないと言いながら、結構楽しんでいる自分もいるし、たまにネットで麻雀をしたり、わくわくすることは無いにしても元気に朝を迎えられただけであり難いと感謝できる自分もいる。別に人様に誇れる様なものではないにしても、これが自分だと思えばそれはそれでうれしくなることもある。人生とはそういうことではないのかな。