無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10022日

 新たな医学部不正入試が見つかったということで、大学関係者が記者会見で謝罪させられていたが、その場面を見て、この人たちは決して納得してないように感じたのは、わしだけではないだろう。差別はだめだというのは勝手だが、医者の仕事と他の公務員や会社員の仕事が根本的に違うのは、命がかかっているかどうかということで、生きるか死ぬかの瀬戸際になった時に、皮膚科の女医はいるけど、手術できる外科医がいないなどというのは勘弁してもらいたい。

 わしは若い頃から、なぜ国立女子大学が2校も存在するのか理解できなかった。やっていることは普通の大学とほとんど変わらないのに、女しか入れないというのはどうしてなんだろう。私立大学も含めるとかなりの数があると思うが、男女平等という観点から見れば、明らかにこれは不公平だろう。そこに建学の精神とか、特殊な女子教育などということを持ち出してくるのなら、昨日の会見で昭和大学関係者が言っていた、医者の特殊性や建学の精神から、一部の受験生に加点したということと同じことではないのかな。

 昨日ローカルの民放で女性消防士を紹介していたが、小さな体で苦労しているようだった。避難民の世話をしている女性消防士を見て、自分もなりたいと思ったらしいが、体力的には男性に追いつくことは不可能だろう。この消防士という職業も、相手の命にかかわる職業であるはずだが、やはり男女平等で成績順に選んでいるんだろうか。それにしては女性が少ないような気がするが。

 火事に巻き込まれて自分が動けない状態の時、その場に現れたのが非力な女性消防士だった場合と、たくましい男性消防士だった場合を考えたら、誰しも男性消防士に来てほしいと思うのではないだろうか。職業にはそれぞれ適正があり、それは厳格にあてはめられるべきであると思う。女性が少ないということは、そのように運用されているのではないだろうか。

 日本では医学部に入る以外に医者になることはできない以上、医学部にはいることは職業選択であり、文学部や法学部の入学試験と違って、入社試験や公務員試験と同じような位置づけられるものだともいえる。そうであるなら、筆記試験で一定レベルの成績を要求したのちに、一定数を総合的に勘案して、大学独自の基準で選ぶという自由はあってもいいのではないのかな。