無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9937日

 定年退職を区切りにして、年賀状をやめようと思ったことがあった。職場関係で何年も付き合いのない人は簡単にやめることができたが、親戚友人なんかはそうもいかず、今でも続いている。年に一回のことだから、ことさらやめることも無いのかもしれない。

 それほど枚数も多くないし時間も十分あるので、せめてあて名くらいは手書きにしようかと考えたこともあったが、結局両面とも、ブラザーの白黒レーザープリンターにお世話になっている。一度楽を覚えると逆戻りはできないようだ。

 年に一度、年賀状だけのお付き合いという人もたくさんいるが、その中の一人であるHさんの年賀状には驚かされた。Hさんは、28から32まで東京で仕事をしていた時の先輩で、随分お世話になった。たしか14~5歳年上だったから、80歳は過ぎているはずだ。

 毎年、青インクの万年筆で書かれた、右肩上がりの流れるような書体が印象的だったが、今年はところどころ震えるように歪んだ、子供が一生懸命書いたような文字が並んでいた。どうやら体が不自由なようだ。

 それを見たとき、ゴルフが好きで、毎週のように出かけていた40代のHさんの顔が懐かしく浮かんできた。職場でもゴルフの話と酒の話しか覚えてないが、あのHさんがリハビリも兼ねてだろうか、一文字一文字一所懸命に書いたのかもしれないと思うと、なんか有り難いものを受け取ったような感じがした。

 健康には気を使う人で、毎年人間ドックに入って検査をしていたから、退職後も続けていたことだろう。運命といってしまえばそういうことなんだろうが、これは決して他人ごとではない。

 自分のことが自分でできなくなると、人生の面白みも半減するのではないだろうか。いくら気を付けていても病はやってくるが、それでも行動の自由を無くすことなく、元気に寿命を迎えて、楽しく死にたいものだ。