無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9932日

 誰でも幸せになりたいと一所懸命に生きているはずだが、幸せになれる人もいればそうでない人もいる。幸せとは何かということは、置かれた状況や考え方で、人それぞれ違うと思うが、それらをすべて受け入れるということで精神の平衡を保っているといえるのかもしれない。

 これは来島海峡大橋が開通した頃のことだから、もうかれこれ20年近く前の話だ。その頃、夕方仕事の帰りにはいつも近所のMさんの家の前を通っていた。

 ある日の夕方、何気なく通り過ぎていたMさんの家の前に、半袖のワンピースを着た小柄なおばあさんが、犬を連れて寂しそうに立っているのに気が付いた。

 その日から毎日、来る日も来る日も何をするでもなく、ただ立っているおばあさんの姿があった。不思議に思って、当時健在だった母に聞いてみると、その人はMさんの奥さんだった。

 母は「あそこも大変なんよ。」と言ったが詳しい話はしなかったし、それ以上こちらからも尋ねなかった。家庭内でいろいろあったようだ。

 それから10日ほどたった頃、突然おばあさんの姿が見えなくなった。犬だけがぽつんと駐車場の片隅に佇んでいた。その日以来Mさんの奥さんは、長男である自身の連れ子と一緒に、杳として行方がわからなくなった。

 それからどのくらいたったのか忘れたが、母からMさんの奥さんの遺体が発見されたという話を聞かされた。長男と二人で死のうと、車で来島海峡大橋へ向かったMさんの奥さんは、どうしても死にきれなかった長男を残して一人で飛び降りたらしい。

 橋まで一時間半ほどの間、二人でどのような会話がなされたのだろう。長男の小さい頃の楽しかった思い出話しをしたんだろうか。そして二人で笑いあったんだろうか。最後にどのような別れをしたんだろう。

 既にMさんも亡くなり、家は人手に渡っているが、その家の前を通るたびに寂しそうに立っていたおばあさんの姿が思い出される。

 死は現実からの逃避だとは思わない。現実への絶望だけでも死ねないと思う。死へ突き動かすのは絶望の先にある希望なのかもしれない。