無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9921日

 年金生活というのは何の制約もないので、気楽と言えば気楽だが経済的にはカツカツだ。少しでも世間一般的な娯楽を求めるなら、その分、他の部分の蛇口を絞るしかない。幸いなことに、そういった娯楽にはあまり興味がないので、それほど無理することなく何とかやっていけている。

 新しいことはネットで見ることができるので、本を買うこともない。また、本が読みたければ、今までため込んだ本がたくさんあるので、それらをもう一度読み返している。何十年も前に読んだ本なんかも改めて読み返してみると、若い頃とはまた違った見方ができて面白い。しかもこれだと金はかからない。

 若い頃から大東亜戦争関連の本もたくさん読んだが、戦争の事実を知りたいという欲求が満たされることはなかった。今になってそれらの本を読みなおしてその理由が少しだけわかったような気がしている。

 自分にとって知りたかった戦争の事実とは戦場の実相だったのか、戦争を経た日本人としての生き方の問題だったのかということを深く考えることをせず、戦場の記録を読むことに終始していた。

 戦争と言えば勝敗は時の運、勝つときもあれば負ける時もある。昨日の敵は今日の友だという思いは多くの日本人が共感するだろう。戦記を読んでも、残念だ、軍隊は理不尽だという思いはあっても、今更アメリカ人やイギリス人を憎むという気持ちにはならず、またそれが当たり前だと思っていた。世界にはこの考えが通用しない人たちがいるということに気が付かなかった。

 戦後半世紀もたった頃から、戦史も出尽くした感があり、歴史としての戦争は次第に遠ざかっていった。同じように感じていてた人も多かったのではないだろうか。その虚をつかれたといえるのかもしれない。昭和20年代生まれの責任でもある。

 事実かどうかということは関係なく、優位に立つための道具として歴史を利用されてしまったようだ。

 これをただすのにまた50年かかるのかもしれないが、一歩も引くわけにはいかない。

 昭和20年8月15日に、武器を使った太平洋戦争は終わったが、大東亜戦争はまだ終わってない。今も一日一日新しい戦史が書き加えられているといえるのかもしれない。