無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9876日

人ではないとはいえ、家の中に病気の犬がいるというだけで、何となく気が滅入ってくることもある。

元気な頃はそんなに甘えることも無く、毎日を淡々と生きているように思っていたが、体が動かなくなると性格も変わってくるようだ。

毎晩悲しそうになくのも、ただ足が動かないだけでなく、首から下が突然動かなくなったのだから、本人には何が何だかわからない状態だったのかもしれない。

最初の頃は、なき声を聞いても何が言いたいのかさっぱりわからなかったが、1か月もたつと、水がほしい、おなかがすいた、しっこが出た、うんこが出た、しんどい、ただかまってほしい等様々な理由があり、理由無くなくことは無いということが、何となくわかるようになってきた。

今まで側にいてもそれほど意識することも無く、単なる点景として大雑把にとらえていた花子だが、こちらが積極的にしてやらなければ自分では何もできない状態になってしまうと、改めて命を持った一つの生き物として意識するようになった

元気な頃は、抱っこされることもあまり好まなかったような気がするが、今は怒ってないている花子を抱き上げて膝の上に乗せてやると、元気な頃の穏やかな顔に戻って寝てしまうこともある。つらいんだろうなとは思うが、どうすることもできない。

1か月も寝たままでいると、体の筋肉が落ちてきて骨が当たるようになってきた。床ずれを防ぐために2~3時間ごとに体位変換をしなくてはならないのだが、夜は大変だった。

大変とはいってもこれも慣れの問題で、1か月も続くと夜中に起きることにもだいぶ慣れてきた。3時間続けて寝てくれたら御の字だ。花子に合わせてこちらも寝る時間が早くなったので、夜更かしはできなくなったが、健康のためにはそのほうがいいのかもしれない。

まだ希望が無くなったわけではないので、自己流のリハビリも始めてみた。回復すると信じつつ、現実は現実として受け入れて、後は大きな流れに任せるしかないのかな。