たかだか67年とはいえ、これだけ生きてくると、ちょっと振り返っただけで嫌なこと、楽しかったこと等様々な思い出がよみがえってくる。そんな中で怒りの記憶というものは、時々現れて正常な思考の邪魔をすることがある。
もちろんそれは楽しい思い出ではないし、それで得をしたこともない。思い出したくないことがほとんどだが、おかしなことに、その怒りの矛先はその時の相手ではなく、今の自分に向かっているということに気が付くことがある。
乱暴な言葉を使って相手を威嚇したり、大声で罵ったりするのは、自分が怒っているということを相手に伝えるという意味があるのかもしれないが、怒りとは、周囲で通常発生している波によって、自分の中にさざ波が誘発されただけだと考えれば、それは相手に知らせる必要もなく、自分だけで解決するべき事象だとも言えるのではないだろうか。
そうだとすると、時々現れる過去の怒りの記憶とは、結局自分の問題として自分で処理すべきことを、理不尽に相手にぶつけた記憶ということになり、それに気が付いた時、そんなことをした自分に怒りの矛先を向けることになるのかもしれない。
このことは、自分自身の至らなさや未熟さを再確認させられていることになるのだろうが、この歳になって感じることは、そんなことも含めて、過去についてあれこれ詮索することが、決してこれからの自分の人生を豊かにすることにはならないということだ。
背負ってきた荷物を降ろすだけでいいんだが、それが難しい。
湧き上がってくる過去の経験が人生の残滓のようなものだとわかってはいても、それを捨てることはなかなか困難なことだ。