無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9862日

 今年の4月28日が父の7回忌になるので寺に連絡を入れたところ、寺のほうではすでに予定に入っているようだった。こちらから連絡しなくともそのうちに向こうから案内があったのかもしれない。

おそらくエクセルにでも檀家を入力して法事を管理しているんだろう。ひょっとしたら宗派ごとに専用のアプリなんかがあって、坊さんのスマホにプッシュ通知でもあるのかもしれない。

いずれにしても、檀家にとっては話が早いので願ったりかなったりだ。

親戚にも案内したが、母方のほうは声をかけないことにしたので、人数も少なく、電話で簡単にすませることができた。

4年前に未亡人となった叔母に、何回電話をかけても留守電に切り替わる。留守電に入れればいいんだろうが、人と電話で話すのも苦手なのに、電話機に向かって一人でしゃべるなんていうことはなおのことできない。

女房に話すと、一人で住んでいる叔母さんは、夜の電話なんかに出ない。たぶん留守電に一言入れたらすぐに出るだろうと、そんなことも気が付かないのかと笑われた。最近のニュースをみていると、確かにそうかもしれない。嫌な世の中になったもんだ。

そこでもう一度電話して、ぴーと鳴ったあとに「○○です。父の法事の件で.....」と言うと、電話の前で待っていたようで、すぐにでてくれた。やはり変な電話がかかってくるので、用心しているということだった。

我が家にかかってくる電話も、買い取り業者、外壁塗装、健康食品なんかで9割近くを占めるから、固定電話を置いておく必要があるのかと疑問に感じることもある。

そういえば、初めて電話をひいたのが、東京の東久留米市に住んでいた頃だから、確か昭和56年だったはずだ。1階に住んでいた大家さんに、電話線をひいていいかどうかを確認してから、電話債券を3万円くらいで購入した。

しばらくして電電公社が工事に来てクリーム色の電話機を設置して行ったときは、これで遠く離れた公衆電話まで行かなくていいんだと、ほんとうにうれしかったのを覚えている。

みんなに喜ばれて役に立った固定電話も、今では犯罪に使われるし、NTTにとってもお荷物になっているようで、いずれ消えていくのだろう。

タイプライター、計算尺、手回し計算機、シャープザウルス、永久マッチ、自転車オートバイ、ケンネット等、自分の周辺でも役に立ったが消えていったものがたくさんある。

いつの日か人も同じように、役に立ったがもういいよと言われて消えていくのだろうが、それはそれでいいのかもしれない。