無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9844日

昨日と今日、新一年生になった孫の帰りを迎えに行った。長男の嫁から、下の子の幼稚園のお迎えと重なって行けなくなったのでよろしくと電話があったのが一昨日。11時40分までに指定場所に集合だったが、この2日間、10時ごろになると時間が気になって落ち着かなかった。

昨日は昨日で、指定場所から連れて帰ろうとすると、引率の先生に帰る方向が違うと、ダメ出しされてしまった。保護者がついていても、決められた通学路を通って帰らなくてはならないらしい。子供に教える意味もあるんだろうが、面倒な時代になったもんだ。

思えば、孫と同じ小学校に入学したのは60年以上も前のことだが、たしか、アルバムに入学式に出かけるときの写真が残っているはずだ。父親が持っていたヤシカ2眼レフのカメラで撮ってくれたものだ。

今更改めてその写真を見ることもないが、舗装もされてない道路に面した玄関の前で、学生服みたいなのを着た私が着物を着た母親と一緒に写っている。家は東向きで前は田んぼだったから、二人にとってはさぞや朝日がまぶしかったことだろう。

当時の小学校はもちろん木造で、天井から裸電球がぶら下がっていた。入学した年に、図工室の建物が一晩のうちに自然倒壊したくらいだから、戦後の雑な作りだったんだろう。これが昼間だったら大事だったんだろうが、あまり話題にもならなかったということは、それほど珍しいことでもなかったのかもしれない。

昭和33年当時、1学年6クラスで、月組雪組花組、松組、竹組、梅組と呼ばれていた。1クラス50名ほどいて、教室はほぼ一杯だった。孫に聞いたら今は30人くらいで2クラスらしい。この60年で、周囲に広がっていた田んぼもほとんどが宅地に変わったにもかかわらず、子供がいなくなってしまったというのもおかしな話だ。

地方から人を集めて都会だけが発展したあげく、地方が疲弊していくというのが現実なのかもしれないが、その地方から人がいなくなり、都会だけが栄えることが、ほんとうにいいことなんだろうかな。