無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9839日 醍醐寺にて

今回の父親の7回忌法要の準備をしていて、ふと思い出したことがある。

40年ほど昔のことだが、仕事で京都の醍醐寺に行った時、そこで修行をしているという若い坊さんと知り合いになったことがあった。それは立っているだけで汗がふきだしてくるような、京都の夏の昼間、ちょうど大文字焼が行われる日だったと思う。

昼食後、暑さしのぎに近くの喫茶店に入ると、顔見知りの坊さんが何人か座って話していた。昼の休憩中くらいは冷房の効いたところで涼みたいんだろうなと思いながら近づくと、椅子を開けてくれたので挨拶をして隣に座った。

その中の一人に、香川県の末寺の息子のK君という、まだ十代の修行僧がいた。話を聞くと、親の後を継ぐために本山に修行に来ているらしい。寺は檀家を持たない祈祷寺だと言っていた。その地方では少しは名の知れた寺だということで、その名前も場所も聞いたんだが残念ながら忘れてしまった。今ならすぐにgooglemapで確認するので忘れることも無いんだろうが。

祈祷寺と聞いても、漠然と法力でお祓いでもするのかなというくらいで、その時はピンとこなかった。このK君も法力を得るために修行しているのかななどと勝手に想像して、檀家も無いのに大変だなと思っていたが、今から思えば、祈祷寺という宗教ビジネスの継承者くらいの感覚だったような気もしている。下手に檀家を持つよりも厄除けなんかで広く信者を持つほうが、ビジネス的にも優れているんじゃないのかな。

ほとんどの日本人にとって厄除けにしても様々な祈願にしても、そういうものは1つの行事に過ぎないと思っているし、たとえ思い通りにならなかったとしても、祈祷寺や神社に文句をいう人はいないだろうから、その点は気楽なものだ。

あの若かったK君ももう60が近いはずだから、今頃K君の子供が醍醐寺で修行している頃かもしれないな。

その日の夕食の時に、□□先生と呼ばれていた醍醐寺の偉い坊さんと話をしていて、K君とその寺の話になった。□□先生の言うには、K君のように跡継ぎができたら問題ないが、娘しかいない寺は養子をとることになる。実際に□□先生のところにもいい養子を探してほしいという依頼がたくさん来ているということだった。

そこで何を思ったか、私に向かって「そうだ、○○君、あんた独身だったな。ここで修行して養子に行かんか。もしその気になったらいつでも来なさい、大きな寺からいくつも頼まれているから、いいところを紹介してあげるよ。」

残念ながらうちの家訓が養子はご法度だから、お断りしておいた。