無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9835日 元岡さんの思い出

今日の昼頃のことだが、ラジオから「真珠貝の歌」が聞こえてきた。ハワイには今までに、昭和48年、21歳の時練習船青雲丸で1回、その後家族で2回、子供の結婚式で2回行ったことがある。どれも懐かしいが、最初に船で行ったのは忘れがたい。

アカプルコから1週間の航海ののち、はるか水平線にハワイ島が見えてきたとき、テレビで見た先輩の元岡さんのシーンを思い出し、「真珠貝の歌」のメロディーを口ずさみながら、感激もひとしおだった。

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元岡さんというのは2学年上の先輩で、昭和44年3月に卒業して、航海実習にはいった。そして元岡さんたちの乗った帆船日本丸のハワイ実習航海の様子がテレビで放映されたのがその年の秋頃だった。当時2年生だった私も当然テレビの前にかじりついて見ていた。そこに映しだされる懐かしい先輩たちの顔が、学校にいる時よりも輝いて見えた。

元岡さんとは出身地も違うし、直接付き合いはなかったが、くりくりした目が印象的な小柄でおとなしく、後輩に大きな声を出すこともない、やさしい先輩だった。その映像の最後に元岡さんがでてきた。ひとり日本丸の舳先にまたがり、前方はるかにオアフ島を望んでいる。それを後ろからカメラが追い、だんだん近づいて回り込んで横顔を映した。

朝日を受けた元岡さんの笑顔、そしてそのバックに流れていたのが、あの「真珠貝の歌」だった。あのシーンだけは今でもはっきり覚えている。

その元岡さんと再開したのは、昭和51年の夏頃のことだった。自動車運転試験場で順番を待っていると、○○君と私を呼ぶ声が聞こえた。振り返るとそこに元岡さんが立っていた。この時は時間もあまり無かったのでお互い近況を話して、また会うこともあるだろうと、あいさつして別れたが、それが最後になってしまった。

それからしばらくして、元岡さんが海で溺れて亡くなったということを知った。

あれから40年もたって、私は歳をとってしまったが、ラジオからながれる「真珠貝の歌」を聞きながら、日本丸の舳先にまたがった、当時19歳だったであろう、笑顔の元岡さんの姿が思い出された。