無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9788日 家族とは

最近老人の暴走事故や引きこもりに関連した事件、列車事故が多発しているが、いったい何があったんだろう。それぞれの事件には関連性は無いと思うが、5月に年号が令和になり、歓びムードの中ではあるが、案外、後の世からこの令和の時代を眺めたら、昭和時代以上に波乱にとんだ時代にみえることになるのかもしれない。そんな気がする。

そんな事件の一つに、元農水次官が息子を刺殺したというのがあった。報道によると10回以上刺していたらしいから、そうだとすると殺す気で刺したんだろう。

親が子供を殺すという悲劇に至るまでの過程は、もちろん当人にしかわからないが、家庭というある意味アウトローな空間の中では、次官という位人心を極めた人であっても無力であったと言えるのかもしれない。

本来、愛情や思いやりで築かれているはずの家族関係が崩壊し、家の中を力が支配したらどういうことになるのか、それを物語っているような気がしている。

親は常に子供のためを思って行動するもので、ほめるときはもちろん、叱る時でも叱ったほうが子供のためになると思って叱る。そして、言いすぎたんじゃないかとか、あんなに言わなくてもよかったんじゃないかと、いつも反省している。

普通の家庭ではそうやって親と子供が真剣に向き合い、お互いを認め合うことで、力ではなく愛情や思いやりに基づいた精神的なつながりが育まれていくのだろう。

子供の成長につれて、我が家でもそうだったように、ほとんどの家庭で一度や二度の取っ組み合いの親子のけんかは経験していると思う。親が子供の成長を認めて、子供としてだけではなく、一人の人間として尊重するように考え方を変えなければ、どこまでもエスカレートしていくだろう。

しかし、子供がある一線を越えたとき、命を懸けて立ち向かうのも親の務めだと思っている。殺された息子は、中学のとき、母親を殴り倒して気持ちがよかったらしいが、その時父親は息子を殴り倒してでも母親に対して謝罪させたんだろうか。家からたたき出したんだろうか。

そんなことは知るすべもないが、殺すと決めたとき、様々な思いが胸中を駆け巡ったことだろう。

力が支配する家庭の中で、会話はすでに不可能だったのかもしれない。子供を殴り倒してでも矯正してやるだけの力も気力も自分には無いと悟った時、包丁を手に取ったということなのか。

おそらく今は、子供のかわいかった時代のことばかりが思い出されて、自分を責めていることだろう。